海外旅行では適当に酔っ払ってとくに何もしないのが楽しい



シンガポール・チャンギ空港は超便利なので日本より海外旅行に安く手軽にいくことができる。よって様々な方面へお誘いいただくのだけど、僕はよっぽどの見どころでもない限り観光ってやつに興味がない。ビーチリゾートなど存在意義がわからない。(スキューバダイビングは好きだけど)

東京の人が東京タワーに行ったことないのは都市伝説ではなく事実。僕も社会人になって地方出身の彼女が出来るまでもれなく行ったことなかった。わかんないけど奈良の人は鹿せんべいを買わないし、山梨の人はぶどう狩りに行かないと思う。たぶん。でも札幌の人はジンギスカン食うんだな。そして広島の人はお好み焼きに麺を入れるし、シンガポールの人は肉骨茶(バクテー)を食う。

僕はこういうのを感じたい。取ってつけたような浅草の提灯じゃなく、そこら辺の赤提灯で話しかけてきてくれたオッサンに教えてもらった古ぶるしい定食屋でホッケ定食とか食べたい。どこの国でも。



僕がしたいのは旅行じゃなく旅なんだ

「旅行」は帰る日が決まっている。「旅」には終わりがない。僕は4年前に旅の途中でシンガポールに沈没して今に至る。なので広義には合法的に居住している今も旅のいち場面といえるかも知れない。

旅行は帰る日が決まっているので、それまでに出来る限りの体験を一気に済まそうと貪欲になる。でも、貪欲になればなるほど、現地で産まれ生活している人たちの呼吸とはかけ離れた存在として街を駆け抜けることになる。この態度では見えるものをかえって見過ごしてしまう。

具体的には、現地の人たちと知り合うチャンスを逃している。

その国、その街を知るためには、現地の人のリズムに歩調を合わせるのが一番手っ取り早い。でも悲しきかな、現地の人のリズムと一番かけ離れているのが「観光客」という過ごし方なのだ。

東京の人が東京タワーに行かないのは、なにも東京タワーが嫌いだからじゃない。死ぬまでにいつか行く機会があるだろう。それまでわざわざ行くこともないだろうという、そういう時間の中で日常が過ぎているのだ。この感覚に合わせていかないと、東京で暮らす人たちの息遣いは聞こえないし、美術館に行ってもその街の文化は見えてこない。

飲みニケーションという言葉は嫌いだけど

会社で飲む酒は拷問だけど、旅で飲む酒は僕を現地の空気に溶け込ませる溶媒だ。言葉もろくに通じない素性もわからない人たちと話すのはシラフだとストレスだけど、酒が入ると楽しくなる。相手も酔っているのでいい加減に思ったことをペラペラしゃべって適当な絵を描いたりして、熱心に心模様を伝えてくれる。

これこそが、旅の醍醐味であり、僕が一番楽しい瞬間だ。どこの国にも例外なく酔っ払いはいる。イスラム教が支配的な国でさえ。そういう国で酔っ払う時は特別に注意することがいくつかあるけど、最低限のマナーをわきまえて然るべき場所にいけば酒を普通に飲むことが出来る。友達もできる。なんの計画も立てていなくても、そこら辺でビールを買って酔っ払っているだけでいいんだ。

Facebookはこういうときに使う

Facebookは日常的に合う人を追うから面倒くさくストレスなんであって、たまに開いて何年も前に辺境の街であった現地の人たちの暮らしっぷりを追いかけるためにある。

例えば正月に開けると、元日を祝う風習のある人達がわかる。同じ元日でもニューヨークと東京では新年の祝い方がぜんぜん違うのがわかる。これの面白いのは、元日も春節も全然関係ない夏のある日に正月っぽい写真をあげている人たちがいることだ。彼らは中華文化圏や白人先進国とは全く別の概念で1年を過ごしていることがわかる。

まぁそんな感じで

旅というのは人生の幅を広げる行為で、そのエネルギーとなるのはどこの国でもそこら辺で売ってる安いビールだ。家に帰るまでの日程とチケットが全部とってあるような状態では決して見られない出会えない体験ができるぞ。