南国で野良猫みたいに暮らしたい

日本で野良猫稼業は大変だ。学生時代に中庭でかわいがっていた白黒茶トラの3匹のうち、厳しい日本の冬を越せたのは黒だけだった。その後大学の敷地内で生まれた子猫たちも、1年後大人になるまで見届けることはなかった。社畜だけでなく猫さえも生きにくいとは。なんという試される大地。

一方、シンガポールの野良猫たちは生きやすそうだ。まず一年中温かいから死なない。マンゴーが街路樹で植わっているので食べ物にも困らない。これは大変なメリットだ。そしてシンガポールには猫好きが多い。シンガポール人がくれるエサは高級品だから、僕が安いカリカリをまいても鳩とムクドリしか来ない。缶詰のジューシーなやつしか食わないんだよこっちの猫様は。だから毛並みも良い。さらにシンガポールには猫カフェもある。野良で食いっぱぐれたら猫カフェに就職すればいい。

最高じゃないか。シンガポール野良猫ライフ。



行きたい時に行きたい場所に行きたい

人間は実に土地に縛られる生き物だ。仕事をせずには生きられず、一度仕事を持つと基本的に一つの場所に留まる生活になってしまう。僕はこれが退屈でしょうがない。仕事をしていると1年なんてあっという間だし、去年の今ごろ何をしてたかなんて、すでにちゃんと思い出せなくなっている。これってすごく人生を無駄にしている気がする。水道を出しっぱなしにしているような感覚だ。時間が指の間から溢れて排水口に無意味に吸い込まれていく。

日本の仕事をやめて世界をビール片手にフラフラしていた時、同じ1年でもすごく長く感じた。あの時は、自分の人生を噛み締めてちゃんと生きていた。生きることを意識して毎日を過ごしていた。どこへどうやって行くか。何をどこで食べるか。どこで眠るか。誰といるか。会社勤めしていると自動操縦でこなしてしまうこうした生活のベースになる選択をきちんと意識していたあの一年は、僕の人生で一番カラフルだった。毎日を新鮮に過ごすには、見える景色を意識的に変えていくのが有効だと思う。

僕はインド人街にもう何年も住んでいるのだけど、いわゆる地域猫を未だに見分けることが出来ない。近所で何匹も猫を見かけるけど、どうも毎度入れ替わっているように思う。縄張りが広くとってあるのだろうか。日本で接していた猫達よりも、こっちの野良たちは広く動き回っていると感じる。彼らの生活はきっと色鮮やかに違いない。



猫の集会はTwitterっぽくて良い

猫の集会がたまに開催される。人間でも、ふと気付くと猫だらけの場所に迷い込み、図らずも参加してしまうことがある。僕の近所の集会場はまだ発見できてないのだけど、HDB(高層アパート)の中庭で猫達が集まって、みんなでまったりしている光景はシンガポールでもたまに見かける。

そういうチャンスに巡り合ったら、とりあえず近くのコンビニでビールを買い、心のザワザワを鎮めて「ただそこにいる」。何もせず、何も考えず、ただそこで静かにしていると、猫達のリズムが掴めてくる。シンガポールの猫さんたちはなかなか難しく、まだ何を言ってるのか皆目わからないのだけど、それでも各参加者(猫)が好き勝手に言いたいこと言って、他人の発言はあまり聞いていない。これは万国共通の猫式のコミュニケーションなんだろう。

これってTwitterっぽい。僕は参加者が多いパーティが冷や汗かくレベルで苦手なんだけど、Twitterのゆるい言語空間は大好きだ。「どうせ誰も真剣に聞いてない」と思えるから気軽に発言できるし、他の人の発言も適当に流して読まなくていい。突然意見を求められることがないし、笑顔をつくらなくていいし、嫌な奴がいたら何も考えずブロックしてしまえばそれで全部スッキリだ。この気楽で薄いつながりは、まさに猫の集会そのものだと思う。

つくづく野良猫になりたくなってきた。

死ぬ時は野良猫みたいに静かに消えたい

人間は老後の心配をしすぎじゃないか。老後の貯蓄のために今の健康を犠牲にして働いている感すらある。老後のために無理して仕事して健康寿命が縮んだら本末転倒ではないか。死ぬことにすら莫大なカネがかかる仕組みは生物として絶対におかしい。

その点、猫は良い。不幸な交通事故を除き、野良猫が死んでいるのを見ることはめったにない。老猫が死期を悟ると、ふらっとどこか静かなところへ行ってその時を待つのだといわれる。なんて自然で穏やかな最期だろう。大切な人たちに看取られることを幸せと感じる気持ちはわかる気がする。でも人生は本質的に孤独だし、最期とは至極個人的な時間だと思う。自分の最期に向き合う静かな死。僕にはこっちのほうが向いている。

もう猫になるしかないな

うん。もう猫になるしかない(=^・・^=)