途上国で学校に行けない子どもたちは不幸なのか

毎度ブログのアイデアを提供してくれるスケボー女子と散歩に出かけたら、なんだかまた深い話で盛り上がった。

彼女のシンガポール人友人が、ベトナムの田舎町に旅行にでかけて、そこで学校に行かずに日がな路上で遊ぶ子供たちと出会ったらしい。言葉が通じないながらもその子供らと触れ合ったシンガポール人友人は「学校に行けずかわいそうだ」と感じたという。

で、その話を聞いたスケボー女子は、この「かわいそう」という表現に違和感を感じたという。今日はこの違和感について僕が思うところを書く。



砂漠の町の好青年

僕はシンガポールに落ち着くまで世界をブラブラしていたので、学校に行かないまま大人になった人達と何度か話したことがある。大抵言葉が通じないので得意なイラストと身振り手振りでの意思疎通になる。だけどインドの砂漠の町ジャイサルメールで出会った青年は、話好きな上に英語が少し理解できたので、例外的に身の上話を深い部分まで聞くことが出来た。

彼はパキスタン国境に近い砂漠の集落で育ったそうだ。彼の住むインドの誇り高きラージャスターン州ジャイサルメールは、北海道より圧倒的にデカい砂漠地域の中心都市で、ラクダに乗って砂漠の集落を巡るキャメルツアーで有名だ。外国人旅行者が訪れるため仕事がたくさんあって、家督を継がない男は辺境の集落からジャイサルメールに出稼ぎに来るのだそう。

彼は僕が泊まった宿屋で雑用の仕事をしながら、ラクダツアーを仕立てて自分の集落に外国人旅行者を送り込み、故郷にお金が落ちるような仕組みをつくっていた。故郷に奥さんもいるそうだ。しっかりしている。

まだ幼さが残る顔立ちなので歳を聞くと「15歳くらい」と。そう、インドには自分の年齢や誕生日を正確に知らない人が大勢いる。

もっかホテルに泊まる外国人を捕まえては英語を勉強中。会話は持ち前の話し好きもあって上手なのだけど、読み書きは体系的に学んだことがないため苦戦しているよう。ヒンドゥー語はかなり怪しいながらも書けるようになったけど、英語の「p q b d」が区別できず、アルファベット発明したやつは頭おかしいとキレていた。



途上国に産まれると人生が制限される

彼は自分の人生に強烈な不満を持っていた。外国人と知り合って外の世界を知れば知るほど、自分の不自由さにフラストレーションが溜まるのだそう。英語を勉強しているのもいつかこの町を出るためと言っていた。

ただ、彼の境遇では簡単にはいかないという。まず故郷に残してきた奥さんと家族がいる。親が決めた見合い婚だったそうで、そのうち子供も産まれるだろう。出稼ぎの身なので年に何回も会えないし、顔を合わせれば家族総出でカネの無心しかしてこないのでもはや会いたくないと言っていた。

もし彼がそんな町を捨てるなら、家族とも絶縁することになりかねない。インドは社会のどこに所属しているかがとても大切。仕事や人も、イエとムラをもとに紹介してもらうらしい。先進国みたく好きな会社に履歴書を送れるわけじゃないのだ。

なので家族の意向を反故にして自分で人生の選択をすることは、僕らからは想像できないほど破滅的なことらしい。あまりにも不自由だ。

途上国なりの幸せがあると感じた

でも、その一方で彼に同情できるほど先進国生まれの僕らが恵まれているかは大いに疑問だ。

確かに、読み書き計算は問題ないし、ほとんどの国に入れるパスポートを持っている。でも人生に不満があったからといって、実際に努力をして犠牲が伴っても理想的な人生を模索するかというと、日本のほとんどの人は「しない」。周りの意向を汲んで現状維持に躍起になる人生が先進国でも「普通」だろう。

実行出来ないのと、あえて実行しないというのは、違うようで同じだ。最終的に迎える結末が同じなのだから。

先進国で育った「選択できるのにしない人間」が、彼のような「選択肢が少ないけど懸命に選択しようとする人生」を「かわいそう」と憐れむことが果たして出来るだろうか。僕らは一見自由なように自覚しているけど、結局不平を漏らしながら満員電車に毎朝揺られてやりたくない仕事を一生やらされる。

僕自身は「決断を下して」海外移住したけど、これだってウツになり文字通り死ぬほど追い詰められるまで出来なかったことだ。

学校教育で洗脳された呪縛はなかなか解けない

先進国の呪縛というのは、教育を受けることで洗脳される部分も大きい。

インドの彼は、学校教育を受けていないからこそ、学校に作られた既成概念に囚われず人生について自分の頭で考えられているとも感じた。「日本人ならこうであれ」という教育によって植え付けられた価値観は、強い呪縛となって自由な選択を奪う。

インド生まれのお釈迦様も「人生は苦を背負って生きていくものだ」と悟ってらっしゃるように、この地球のどこに産まれようが苦難を乗り越えていく必要がある。産まれ落ちた環境によってその種類は違えど、人生の苦しみに大差はないと確信している。

それを表層的に比較して「かわいそうだ」などとしたり顔をするのではなく、己に与えられた苦難に向き合っていくのが人生だと思う。