ADHDで板書取れなくても大学まで出られたが日本社会には適応出来なかった話

ADHDは授業中に立ち歩いたり、突然奇声を発して教室を飛び出したりするという。僕はそこまでの多動性・衝動性はなく、消しゴムのカスをネリケシに混ぜたり、カッターナイフで机にBB弾ゴルフ場を建設したり、手悪戯に集中して学校の授業を乗りきっていた。

農業地域のかなり荒んだ公立校だったので、暴力が支配する学級崩壊のなか、そんな僕の些細な悪戯が目立つこともなかった。

ただ手元に熱中して授業をまったく聴いていなかったので、小学校の成績は悪かった。でもまぁ小学校の成績なんて人生の誤差みたいなもんだ。現実的に授業に集中できない問題が顕在化したのは中学校に上がってからだ。

板書できない

僕が通っていた未開の中学校にはノートチェックという悪習がはびこっていた。真面目なくせに授業についていけない「真性のアホ」に少しでも加点するため、板書さえキチンと取っていれば定期テストの成績に下駄を履かせてもらえるのだとか。

小学生の時はノートなんて取らなくても、周りの多くが皆そんなノリだったので意識すらしなかった。ところが板書が具体的に点数化されて、進学にモロに影響するとなると困る。僕は乱暴な農村地域が嫌いで、高校は市外に出たかったのだ。

そこで僕も黒板を凝視して一言一句書き写すよう頑張ることにした。ところが、板書していると、先生が話している内容が耳に入ってこない。さらに、手を動かす動作を頑張るあまり、書いている内容も脳からダダ漏れる。こんなの見知らぬ象形文字を書き写す単なる作業じゃないか。

そんなこんなで僕の中学校最初の成績は最悪だった。

僕は昔から持ち物を整理するのが苦手だった。幼稚園の時は弁当箱をカバンにしまえず、小学生の時はプリントが机の奥にグチャグチャになってて、そのさ...

ADHDの過集中で教科書丸暗記

さてさて夏休みも後半。親に怒られて宿題をやるハメになり、仕方なく教科書を開いて僕は驚いた。テストに出た内容が全部ここに書いてあるじゃないか。いつか進研ゼミのマンガで見たようなショックだった。

授業中はチャイムがなるまで机にジッと座って耐えたり、黒板を頑張って凝視したり、先生の話を理解しようとしていたけど、マルチタスクができず教科書なんて開く余裕はなかったのだ。

発達障害にとって集中力のなさ、マルチタスクの欠如がよく言われる鬼門だけど、ひょっとすると教科書を丸暗記さえすれば「板書」も「授業」も「先生」も根本的に必要ないのでは?

これに気付いてから僕の人生は変わった。過集中で試験前に教科書を丸暗記して、二学期から成績は劇的ビフォーアフター。それから中学卒業まで学年で5番を下回ることはなかった。何度か学年トップだったこともある。

手悪戯を再開して板書を止めたので、ノートチェックは毎度0点に等しかったとおもう。でも試験で良い点さえ取れれば、最終的な成績で挽回することができる。

日本社会では皆と同じ方法で成果を出さないといけない

教科書丸暗記を駆使して無事に高校から農村を脱出し、現役合格した国立大学を遅滞なく卒業した。過集中最強www 人生チョロすぎwww

だったらよかったのだが。サラリーマンとして社会に出た途端に見事にコケたよね。

日本は何を成し遂げたかだけじゃなく、どうやって成し遂げたかを重要視する社会だ。

例えば客先や先輩に業務説明を受けている時に、メモを取らないのは話を聴いていないのと同義で扱われる。マルチタスクが出来ず、メモを取ると理解力がほとんど枯渇するとしても「ちゃんと聴いてるアピール」が必要なのだ。ガラケーで録音してるので大丈夫ですとか言った日には、一瞬で職場から疎外されてしまうだろう。

他にも、僕はMicrosoft Officeのマクロを駆使して事務作業を自動化するのが得意なんだけど、こうした業務改善が必ずしも評価されるとは限らない。職場によってはグローバル化に全力で反抗し、今現在でも「手作業で頑張ってる姿勢」に重きを置いているからだ。

日本社会では効率よりも、横並びな根性論の方がまだまだ優勢なのだ。

多民族国家に移住してラクになった

そんな生産性の低い会社はとっとと潰れてしまえと思ったけど、残念ながら会社より僕自身が先に潰れちゃった。

日本人社会では考え方や行動の個性が強いと「普通」の波に乗って生活できず「社会の常識」に潰される。これを「大衆圧力」と呼びたい。英語だとpop...

でも突き詰めれば「みんなやってるからお前もやれ」っていう大衆圧力に耐性がないだけで、僕の能力そのものが劣っているわけじゃないと信じている。だから「みんな」の定義が曖昧で「自分の常識」が「他人の常識」じゃないのが当たり前の多民族国家に移住したら普通に働けている。

グローバル化に対応している国では、クリエイティブ・ジョブと、マニュアル・ジョブに分かれている。クリエイティブ・ジョブは求められる成果物だけが重要でその作業工程はどうでもいい。マニュアル・ジョブは定められた手順にさえ従ってれば世界の誰でもこなせるように落とし込まれているのだ。

この様な社会では「聴いているフリ」のためにメモを取る必要はないし、マクロで効率化すれば単純に自分がラクできる。まさに僕にピッタリだ。

まぁ日本社会には適応できなかったけど、シンガポールでちゃんと働いてるしこんな人生もアリだよね。

コメント

  1. ごん より:

    帰国してるんだね。
    時間あれば会いましょう。

  2. 馬空人 より:

    通りすがりの者です。記事を拝見して面白いと感じたのでコメントを残しておきます。

    >日本は何を成し遂げたかだけじゃなく、どうやって成し遂げたかを重要視する社会だ。
    …(*)

    自分に最も適した方法であるにもかかわらず、他者から見れば必ずしも信頼されるような態度ではないが故に挫折したブログ主さまの嘆きがよく理解できました。私は学生の分際ですのであまり偉そうなことはいえませんが、私からすれば、「態度だけがもっともらしく立派な人間」なんかよりも、自分に適した方法で自分の能力を最大限に引き出せる人間のほうが魅力的であると思いますし、後者のような人間になりたいと思います。

    記事中に農村部の中学校時代の教育方針について述べられていますね。「真面目なくせに『真性のアホ』にでも少しでも加点するため…」とありますが、実際公立中(あるいは義務教育?)は(ノートの提出自体はその範疇に含めるかどうかは様々な目的があるので議論が必要だが)問題のある評価方針が多いとは昔から私も思いますね。しかし、私が思うに、仮に社会的には受け入れられなかったとしても、本人が高い能力さえ持っていればそんなものくらいはどうということはないのではないでしょうか?ブログ主さまはそのような環境の中でも自分に最適な勉強法を見出してどんどん実力を伸ばしていった方のようですし、くだらない精神論やらに迎合する生き方よりも、ブログ主さまの様に合理性と高い実力を武器に生きていくほうが賢い生き方なのではないかと私は思います。社会は合理的な人間ばかりではないということでしょう。

    ただ、最後に、(*)の引用に関しては、一概にそうもいえないと思います。いくら手帳の取り方まで見られるとはいえ、結局現場で求められるのは結果であり、あくまで(*)が弊害となるのはその結果自体が達成されているが手段に問題がある(と認識される)場合でしょう。手段が適切であったとはいえ結果が出ていなければ(*)はマイナス要素どころか救済余地にもなりますし、僭越な物言いで恐縮ですが、もしかしたら、結果は出ているがため、(*)と言っていられるうちが花なのかもしれませんね(もっともブログ主さまの場合、その後会社よりも先に自分が潰れてしまったとあるので、あくまでブログ主さまの事例というよりは一般論のつもりで申し上げたまでです)。