シンガポールの伝統的屋台ご飯が消えている

僕が始めてシンガポールにやって来た4年前、この国の飯は今よりもっとコスパが良かった。シンガポール建国当初から営業している屋台料理村「ホーカーセンター」では、熟年の老夫婦が当時の味を守って包丁を握っていた。見た目はあまりよろしくないのが南国ご飯なんだけど、その味は出稼ぎ労働者の胃袋を何十年にも渡って満足させてきた力強いものだった。お値段たったの350円。この時代に滑り込みでシンガポールに住めたことを本当にラッキーだったと思う。

それが今ではそうした名も無き老舗が閉店に追い込まれ、イオンモールのフードコートさながらの、チェーン店ばかりが入る文字通りただ空腹を満たすだけの場所に成り下がってしまった。具体的には、中華料理の亜種であるシンガポール料理は大火力で下ごしらえしてある肉野菜を、お客に出す直前に勢い良く炒めあげることが大切なんだ。だけでそれには熟練の腕前と調理設備が必要だ。でもフードコートに中華料理用の強力なガスバーナーはないし、バイトで安く雇われた異国の人が伝統の味を再現できるわけでもない。

老舗屋台飯が廃業してフードコートに成り下がっている原因には地主の賃上げと、料理人の高齢化がある。

半端ないシンガポールの賃上げ

僕がシンガポールで最初に就いた仕事はバックパッカーホステルの管理人で、当時ネットで簡単に取得できたワーホリビザで仕事をしていた。ワーホリビザは6ヶ月しか有効期間がなくて、延長はできない。ビザ切れの後はインドに行ったんだけどその話は別の機会にする。

僕は一応ホステルの管理人だったので、マーケティングや帳簿の管理(一応日本の簿記をもってるぞ)、関係各所とのやり取りも一通りやった。なので経費やビジネスを取り巻くお上の事情は嫌でもわかってしまう。で、なんと僕のいた6ヶ月間でホステルが入っているビルの家賃が20%も値上がりしたのだ。今住んでいる家の家賃が20%上がった場合を想像して欲しい。分譲マンションの修繕積立金でもいい。引越しを考慮するだろう。ちょっと尋常じゃない。これには複雑な事情がある。

日本が国債を乱発して予算を確保する赤字国家なのに対し、シンガポールは(異論はあれど)経済システムから国家が利潤を確保できる「黒字国家」である。シンガポール人からすれば、公的福祉や皆保険もないまま先進国を標榜する政府に不満があるかもしれないけど、とりあえずシンガポールという国家は赤字国債を乱発することなく黒字で運営されている。これは白黒両面ですごいことだと思う。

黒字な理由はいろいろあれど、僕がイチ生活者として感じるのは見えない税金が高いということだ。シンガポールで働く労働者が払う所得税は一見非常に安い。日本で普通にサラリーマンをしていたら1ヶ月分で引き落とされてしまう源泉徴収税額が、シンガポールの1年間の納税額って感じだ。税金天国(タックスヘイブン)とはよく言ったものだ。

ところが、正式に税金として収める額意外にも、実は最終的に政府に上がっていくお金がある。これが見えない税金。例えばショッピングモールで買い物をする。品物に値段は仕入れ値だけではなく、従業員の給料や、モールに支払うお店の賃貸料が含まれている。そしてこのモールを開発・管理する会社は、政府系ファンドの傘下だったりする。つまり家賃が上がると政府の収益が間接的に増える仕組みがある。この構造はほとんど全ての産業に完成されている。地下鉄に乗ってもタクシーに乗っても、そのうち一部は巧妙に政府に繋がっている。

そんなわけでシンガポールでは定期的に一斉値上げが行われる。家賃、地下鉄の運賃、タクシー、ホーカーご飯の値段まで、すべて一斉に値上がる。日本で消費税が上がると自販機や電車が便乗して理不尽な値上げをしてくるのと雰囲気は似ている。

で、この煽りを受けるのは零細企業だ。零細企業の最たるものであるご飯屋台は、この家賃値上げに耐えられない。同じチキンライスが、350円から400円になったら、お客が減ってしまう。よって、値上げに踏み切れない場合、選択肢は2つ。コストカットか、廃業だ。前者を選んだのがチェーン店であり、後者は老夫婦の営む伝統的なお店だ。これによりシンガポールのお袋の味が急速に失われている。

職人は尊敬されるべき

日本も匠の技とかほざいてマーケティングに利用するだけで、職人が使い捨てられている。ITエンジニアは今の3倍の給料をもらうべきだ。同様に日本では歴史的集合知である農業の高齢化が深刻だ。誰しも新鮮で安全な食べ物を望むくせに、誰も食料を自分で生産しようとしない。東北の農家が嫁さんもらえない現象がら見るに、農業が職業として蔑まれている感すらある。僕は高校時代に岩手の酪農場で住み込みで働いていたのだけど、あれから15年、今はどうなってしまっているのか。。。

でもこれは日本に限ったことではない。シンガポールの屋台料理が衰退している原因のもう1つがまさにこれである。ホーカーの経営は苦しい。だから老夫婦経営の伝統的な屋台でさえ、子息に店を継がせようとしない。そもそも、シンガポールの若者も「フードアンドベバレッジ」と言われている飲食業に就くことを異常に嫌う。最近でこそ、伝統の味を守りつつ、新しい価値を生み出そうと屋台を興す若者が新聞に取り上げられたりするようになった。それでも上述した賃上げや、仕入れコストの上昇で経営はかなり苦しいと思う。

一番の問題は、飲食業の人がぜんぜん尊敬されていないことだ。日本だと、例えばチェーン経営のスターバックスに行っても、バリスタとして誇りをもって働いている人がいる。そしてそういう人が将来自分のカフェを構えるのも不可能な話ではない。でもこっちのカフェでそんな風に将来のビジョンをもってコーヒーを淹れている人は殆どいないと思う。そもそもお客さんがサービスや味にぜんぜん敬意を払っていない。まるでハリーポッターに出てくる下僕妖精(ハウスエルフ)のように扱われている。

その結果、シンガポール人がシンガポール料理を作らなくなり、レストランで働いているのも出稼ぎの労働者ばかりだ。

急速にお袋の味が失われている

まぁそんな感じで、賃上げにより経営が逼迫し、味を犠牲にしてもコストカット出来るチェーン店のみが生き残り、伝統的なお店が廃業している。そしてその状況が、ますます若者が飲食業で働こうという熱意を奪っている。

非常に寂しい話だけど、僕ら日本人としては大して問題ではない。路線バスでいけるマレーシアではもっと料理人がステータスであり、若者がカフェやレストランを開いて地元に溶け込んでいる。伝統的なプラナカン料理(中馬折衷料理)も安く食べられる。とりあえず5年くらいしか知らないけどマレーシア料理の味が落ちたとは思わない。むしろ若い人がやっている新しい店が増えて、コンセプトも面白く、それでいて安い。

シンガポールの伝統的料理が失われるのは寂しいけど、ほとんど同じものがずっと安く美味しくマレーシアで今でも食べられる。