東南アジアには野菜嫌いが多くジャンクフードに味覚をやられてる

このまえ友達と昼飯を食ったんだけど、メニューが違うにも関わらず彼らの飯が全体的に茶色くて、ざっくり言うと油で炒めた炭水化物と肉って感じ。なんかもっと野菜食えよっていったら、手元のライムジュースを指差して「これだ」と。どう考えても果汁1%くらい、砂糖水にカボスを2個浮かべたやつだ。「じゃあ他にもこのチリソース」。そう、東南アジアで唐辛子は立派な野菜なのだ。まるで業界団体の圧力でトマトケチャップが野菜扱いになってしまったアメリカみたいだな、って言ったらウケてよかった。

そんな話はどうでもいいとして、この日集まった男どもはみんな野菜が嫌いである。程度の差があるものの、1人はカップ麺の乾燥ネギを摘んで捨てるほどに野菜嫌いで、僕はその度からかっている。日本にいる時は僕自身もかなりの偏食だと思っていたんだけど、シンガポールに移住してから「野菜食えよ」とかお節介する側になってしまった。

偏食の言い訳が面白い

お節介に野菜食べろと言われても嫌いなものは嫌いなのである。僕も食べられない食品が多いので気持ちはよく分かる。でもこっちの友人は何かと理由をつけて食べないことを正当化してくるので面白い。

例えば、カンクンといういわゆる空芯菜を食べない理由として「身体を冷やすから」だという。氷満載のコーラとか飲みながらそれを言うのである。この手の、陰陽学に基づく(ようにみせかけた)言い訳は定番だ。果物や青菜を食べない理由として身体を冷やすから、酒を飲まない理由として内臓に熱が溜まるから等々。

その他、食べ合わせが悪いという主張をする人もいる。シンガポールではドリアンとビールを一緒に摂取すると死ぬっていうのが有名だけど、この手の「食べ合わせ迷信」がたくさんある。たくさんありすぎるので、言い訳にその場でこしらえてるんじゃないかと思う。他の知り合いは「いまカボチャを食べた。人参は根っこで被るから食べない」という。なおカボチャは根っこですらない。そのくせタケノコ炒めはモリモリ食ってたので突っ込んだら「これは芽。根じゃない」などとそれっぽいことを言い返してくる。

宗教上食べられない場合も

東南アジアには、宗教上食べてはいけない食品がある人が多い。全員ではないけど、中華系の仏教徒であっても牛肉を避ける人もいる。僧侶でもない一般の仏教徒に食べ物の制限なんてあったけと尋ねると「牛は賢い生き物だから」という。ブタや鶏は、牛ほど屠殺に苦痛を感じないと。関係ないけどこの種の思考は捕鯨に反対する白人たちと通じるものがある。その理論だと優生学に行き着くと思うのだが。。。

一方、イスラム教を信じている人にとって禁忌の食べ物は「汚らわしい」という感覚に結びついているっぽい。これは日本人の感覚だとトイレに近いと理解している。豚肉はウンコで、ワインはオシッコである。トイレで作られた料理など、たとえ汚物が直接入ってない料理だろうと、触れるのさえ嫌だろう。ハラルでない料理・料理屋に対する彼らの感覚は概ねこれに近いと思う。食べられない気持ちもうなずける。なおハラルとはコーランの教えに沿った食品・料理に与えられる認定のようなものだ。

偏食だと味覚をジャンクフードに奪われる

で、まぁそんな感じなので、例えばイスラム教徒でブタ肉と酒が禁忌ならば、中華料理の多く、ソースにワインが入ってるフレンチがごっそり食べられなくなる。日本食なら、だし汁に酒をあわせて味をつけるもの全て、酢(醸造してるからだめらしい)を使う寿司、豚骨ラーメン、、、つまり、もろもろ全部がダメになる。こうなると、もう食べられないものが多すぎて、同じような料理を順繰り食べ続けることになる。

その結果起こるのが偏食と、ジャンクフード依存。

当初すごい不思議に感じたのだけど、ハンバーガーやフライドチキン、ピザなどなど、シンガポールに展開するファストフードのほとんどがハラル認証を取っている。いろいろ食べられないものがある場合、どこでもいつでも安く美味しいジャンクフードは手軽なご馳走になる。野菜がほとんど入ってないのもポイントが高い。

もともと、めっちゃ辛い、めっちゃ甘い、めっちゃ脂っぽい料理が多い東南アジアにおいて、はっきりと刺激の強いジャンクフードは相性が良いのかもしれない。

そりゃ糖尿病になるわな

その結果、糖尿病が社会問題になっている。街をあるいていると杖をつかってヨタヨタ歩いているオッサン・オバサンが目につく。お爺さんお婆さんじゃなく、まだまだ中年って感じ。あの人達がみんな糖尿病かもしれないと言われた時にはその多さにショックを受けた。

地下鉄駅にあるディスプレイにも糖尿病を撃退しようCMが流れている。野菜を食って運動しようみたいな内容の政府広告だ。福祉があまり充実していないので、治療に長期間お金のかかる慢性疾患は死活問題。

手軽な美味しさを求めると糖尿病になってしまう昨今、食事とはまさに「生命維持の作業」になりつつあると思う。