宮下奈都「羊と鋼の森」読了。仕事をアイデンティティにできない

宮下奈都「羊と鋼の森」読了。2016年本屋大賞作品。北海道の山奥出身の主人公がピアノ調律師として一人前になっていく物語。基本的にハッピーエンドだし、程よくポジティブな読後感を得られる一冊。

でも何か心に突っかかる思いを抱えながら最後まで読んだ。読み終わって考えるに、その突っかかる部分は、仕事によってのみアイデンティティを確立している主人公の生き方にあると思い至った。僕には出来ない、達者な身のこなしで世間を渡っているくせに、さも主人公は不器用なように描写されている。

自分とは何者か

アイデンティティという言葉は、日本では「自尊心」と同義で語られることが多い。ところがこれは英語のIdentityとはちょっと意味がズレている。

英語のIdentityとは、自分はどういう人間であるかという「自己認識」を意味する。それを肯定するか否定するかは別にして、自分が何者であるのか、自分自身でどう認識しているのか。それがIdentityだ。(だよね…?)

それを「自尊心」としてしまうから、職業で自分を語ってしまう。日本人は良くも悪くも人生のほとんどを「やるべきこと」に費やす。異論はあれど、男性ならば「勤労」だし、女性なら「家庭や子供」になるケースが僕の周りには多い。でも何をして食いつないでいるかなんて、ただの行為でしかない。そんなもんで自分自身を構成してしまって良いのか。Identityが子育てなら、子どもたちが独立して巣立っていったら自己認識まで失うことになってしまわないか。

しかも、殆どの人にとって仕事や子育てなんて自分の今の意思に関係なくやらないと社会的に生きることすらままならない、いわば「義務」である。義務によって自分自身を定義するならば、それは他人に書かれたプログラムによって動くロボットと変わらない人生なのではないか。

僕はどうしてもこういうメンタリティから抜け出せず、仕事にも家族を作ることにも積極的に取り組めない。

仕事で成長できるのが一番生きやすい

とか言って僕も勤労して社会的義務を果たさないとご飯を食べられないし、海外に住んでいる関係で、職を失うと住む国も同時に失う。本作の主人公のように、仕事で自分の専門知識を伸ばしながら歳を重ねていければどんなにラクだろう。社会が求める方向に、自分のベクトルを合わせられれば、周りの承認も自動的にくっついてくる。僕みたいなひねくれた考えで人生を進めるのは周りとの摩擦の連続だ。それでいて僕だって働かないと餓死なので生き難いことこの上ない。

そういう意味で、本作の主人公の生き方は羨ましい反面、味気なく感じた。