読者の皆さんは「全てを捨てた経験」がありますか。僕はある。自信を持っていた分野で文字通り死ぬ寸前まで働いても挫折に辿り着き、20代後半の結婚ラッシュで順風満帆な同級生の空気についていけず、かといってこの歳で実家に泣きつくわけにもいかず。。。
どうしょうも首が回らなくなった時、仕事や人間関係の全てを捨てて旅に出た。
学生の時から登山用のリュックを背負ってヨーロッパなどを巡っていたのだけど、当時はエアアジアがようやく韓国ソウルに就航したころで、今のようにSkyscannerで安いチケットを気まぐれに買うような時代ではなかった。
そんな背景もあり、いかに安く日本を脱出してLCCの長距離便が就航している都市に移動するかが貧乏旅行の醍醐味だったんだな。当時は知る由もないけど、ニアミスでこの年についにエアアジアが東京に進出してくることになる。今思うと日本を安く脱出するのに苦労するのは、歴史的にあれが最後の年だった。
帰りの予定が決まっていると落ち着かない
「旅行」と「旅」の違い。よくバックパッカーの間でかわされるベタな話だ。旅程と帰る日付が決まっているのが旅行、明日の予定は明日決めるのが旅、ってやつ。
それまで飛行機のチケットは往復で買うのが当たり前だった僕にとって、日本を出てから乗り継ぐLCCの自由でちょっといい加減な雰囲気は新鮮だった。クレカとパスポートさえあれば文字通り世界のどこへでも行ける。
それから1年近くかけてダラダラと東南アジアや北米など10カ国以上を放浪した。べつに何をしたわけじゃなく、そこら辺の売店で安いビールを買って、天気と気分が良ければそこら辺でヒマしてそうなオッサンとか、夜の雰囲気をまとったお姉さんに1本おごって、1時間くらい身の上話を聞いてもらうってな、パンツのゴムが伸び切ったような日々だった。
これで僕のうつ病は劇的に回復していった。凝り固まった心がほぐされて、日本的な固定概念の汚れが雲散霧消していった。一度こういう体験をしてしまうと、青空のビーチも世界遺産も霞んでしまう。僕にとっての旅とは心の洗濯であって、何か具体的な目的地がある「旅行」ではありえない。
東南アジアに出かけるには地政学的に最強なシンガポールに5年も住んでいるにも関わらず、ここに落ち着いてからは最低限しか海外に出なくなってしまった。
いますべきことはココにある
めっちゃダラけてるけど、まぁ言ってみればこれも「海外生活」。もはや何気ないシンガポールの日常からは未だに新たな発見が尽きない。
大陸中国から渡ってきた中華系シンガポール人こと華僑の価値観や、移民の過程。日本語にも大きな影響を与えている福建語の言い回し。歴史的に中国共産党と対立関係にあったシンガポール政府の身のこなし。現地の人の口から語られるこうした「生きた歴史」を、英語で吸収できる新鮮さ。
あ、ぶっちゃけ僕が英語で意思疎通できるようになったのはここ6年くらいなものなのだよ。もちろん留学経験とかないし、それ以前は典型的な受験英語でしか身についてなかった。
こういう新しい知的刺激が毎日あって、そこから得られた気付きを文字にして発信できる場がある今は、多分今までの僕の人生で一番恵まれている。やるべきことも、やりたいことも、全てここにある状況。
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まとめ
そんなわけで、シンガポールに引きこもっているばっかりな僕なのだけど。結局自分が何をしているときが一番幸せなのかを、全部捨てたことから学んだ感じ。
以前囚われていた「やった方がいい」「やらなきゃ」みたいな外圧で行動していたのをすっぱり止めて、「これをやりたい」という心の声に素直な毎日を送っている。これこそが僕にとっては幸せのカタチ。