死体が集まる街、バラナシ
フィリピンで1ヶ月何もせずビール飲んでたらうつ病はだいぶ良くなった。とは言えまだ精神安定剤とか飲みながらの放浪旅。インド滞在中も何度か周期的なメンタルの不調に襲われて、ちょうどそんな日にたどり着いたのがヒンドゥー教の聖地ヴァラナシ。ガンジス川で沐浴するステレオタイプな光景が見られるのと、最近日本にも浸透してきたボリウッド映画の本拠地でもある。 グダグダと目的もなくビール片手に散歩するのが僕の旅のスタイル。だから有名な観光地でも大抵は素通りする。けど、ここヴァラナシには是非行ってみたい場所があった。それが火葬場マニカルニカー・ガート。
人生とはそもそも苦行である。しかも苦痛に耐え人生を全うしても、すかさず輪廻転生で次のループに組み入れられ、無限に苦しみ続けることになる。ガンジス川で荼毘に付され遺灰を流されることは、苦行である輪廻のループを外れる唯一の方法なのだ。ちょうど人生の苦しみに押しつぶされて病んでいた僕にとって、この概念はしっくりきた。 このような思想の元、バラナシにはインドのあちこちから輪廻を抜けたい遺体が集まる。国土の多くが灼熱の荒野であるインドでは、日中はときに気温が50℃を越える。ところが夜は放射冷却で一気に熱が宇宙に拡散し、ひんやりとした漆黒の街に満点の星空が美しい。遺体が傷まぬよう気温が下がった夜に、四輪駆動車の屋根に棺桶をくくりつけて広い国土を駆け抜けてくるのだ。 そしてバラナシに集められたこうした遺体を火葬するのがマニカルニカー・ガートだ。
聖なる泥水を巡る死と人間模様
ガートとはガンジス川にせり出した石造りの階段だ。最初はガートをてっきり聖なる沐浴場だと思っていたのだけど、そういえば熱心に沐浴する聖者の隣で堂々と石鹸を泡立てて洗濯したり身体を洗ったり、その下流の水でチャイを作ってる人もあって、ようは「聖なる河へ続く階段」くらいでしかないっぽい。

死を隠さないインド
こんな感じで、バラナシ滞在中はほぼ毎日マニカルニカーに通った。朝早いうちに裏路地を抜けてたどり着き、太陽が高くなるとビールが飲めるところへ移動って感じ。昼間は火葬の炎も加わり尋常じゃなく暑いのだ。 そんなある日、同じような境遇の日本人看護師さんに出会った。彼女もメンタルの不調をきたして休職と復職を繰り返しているらしい。それで死にたくなると、彼女は「死を感じに」インドへやって来るという。 死を感じるためにここに来る。ハッとした。なるほど、怠け者の僕の足が毎朝マニカルニカーに向かってしまうのも、死を感じたいのかもしれない。 日本で遺体を見る機会は葬式に参列した時くらいだけど、それだってきれいに安置されたご尊顔を拝む感じだ。一方、インドは死を包み隠さない。ここマニカルニカー・ガートでは遺体はむき出しの状態で焚き火で葬られる。人間の身体が炎に包まれ、はぜて反り返り灰になっていく。その様子は昔読んだ「はだしのゲン」を彷彿とする。