インドに行くと人生観が変わるのか

行けば人生観が変わると言われるバックパッカーの聖地、 インド。ウツで会社辞めてから1年間暇だったわけで、僕もご多分に漏れず下痢してきた。

人生観については空港出た瞬間に変わったね。チェンナイINのコルカタOUT、その間は1ヶ月かけて陸路という旅だったんだけど、チェンナイ空港を出た瞬間にロータリーでオッサンが野糞してた。しかもそのウンコが真っ赤な明太子みたいで、絶対身体がなんかヤバい。赤痢?死ぬの?

そんでオッサンの野糞にあっけにとられるうちにサンダルで牛のウンコを踏むという。。。牛が闊歩しているってのは知ってたけど、空港のロータリーくらい追っ払っとけや。

これが僕の人生観変わった瞬間ってやつだ。

取り乱しました。正直いうと感受性が低すぎて僕は人生観変わらなかったんだけど、今日は人によっては人生観変わるかもしれない体験の話をば。

死体が集まる街、バラナシ

フィリピンで1ヶ月何もせずビール飲んでたらうつ病はだいぶ良くなった。とは言えまだ精神安定剤とか飲みながらの放浪旅。インド滞在中も何度か周期的なメンタルの不調に襲われて、ちょうどそんな日にたどり着いたのがヒンドゥー教の聖地ヴァラナシ。ガンジス川で沐浴するステレオタイプな光景が見られるのと、最近日本にも浸透してきたボリウッド映画の本拠地でもある。

グダグダと目的もなくビール片手に散歩するのが僕の旅のスタイル。だから有名な観光地でも大抵は素通りする。けど、ここヴァラナシには是非行ってみたい場所があった。それが火葬場マニカルニカー・ガート。

インド人の8割を占めるヒンドゥー教徒にとって、聖なるガンジス川で荼毘に付されるのは至上の幸福とされる。この理屈がとても良い。曰く、

人生とはそもそも苦行である。しかも苦痛に耐え人生を全うしても、すかさず輪廻転生で次のループに組み入れられ、無限に苦しみ続けることになる。ガンジス川で荼毘に付され遺灰を流されることは、苦行である輪廻のループを外れる唯一の方法なのだ。

ちょうど人生の苦しみに押しつぶされて病んでいた僕にとって、この概念はしっくりきた。

このような思想の元、バラナシにはインドのあちこちから輪廻を抜けたい遺体が集まる。国土の多くが灼熱の荒野であるインドでは、日中はときに気温が50℃を越える。ところが夜は放射冷却で一気に熱が宇宙に拡散し、ひんやりとした漆黒の街に満点の星空が美しい。遺体が傷まぬよう気温が下がった夜に、四輪駆動車の屋根に棺桶をくくりつけて広い国土を駆け抜けてくるのだ。

そしてバラナシに集められたこうした遺体を火葬するのがマニカルニカー・ガートだ。

聖なる泥水を巡る死と人間模様

ガートとはガンジス川にせり出した石造りの階段だ。最初はガートをてっきり聖なる沐浴場だと思っていたのだけど、そういえば熱心に沐浴する聖者の隣で堂々と石鹸を泡立てて洗濯したり身体を洗ったり、その下流の水でチャイを作ってる人もあって、ようは「聖なる河へ続く階段」くらいでしかないっぽい。

そんなガートの中でひときわ個性的なのがマニカルニカー・ガート。ここはインド中から集まってきた遺体を火葬して遺灰をガンジス川に流すことに特化している。

遺体の火葬には大量の薪を使う。周辺は荒野なのにこんな木材がどこから採れるのだろうと不思議になる。マニカルニカー・ガートで火葬を見物していると、もれなく自称「遺族」から薪代を徴収される。いわく「薪が足らずこのままでは父ちゃんが生焼けになっちゃう」と。

こいつらがホンモノの遺族であるはずはない。ホンモノの遺族は、薪の上に安置された遺体の周りで神妙にしている人たちだ。

まぁそんなことはわかりきっているとして、こういうクソみたいなインド人を邪険にすると、もっとタチの悪いクソが集まってくるのがインド。郷に入れば郷に従え。僕は予め用意してある100ルピー(200円)を渡す。ただし、タダではない。その後、2時間くらいお喋りに付き合わせるのだ。

観光客相手にカネをせびってくるインド人は、片言の英語を話す。だから適当な質問を繰り出すと会話に乗ってくる人が多い。なので100ルピーを掴みにして、どんどん彼の知っていることを引き出す。都合の良いことに、地元インド人と穏便に話していると、それ以上詐欺師が寄ってこない。他人のシマは荒らさないのが掟なのかもしれない。200円で二時間の平穏を買うと考えれば安いもんだろう。

大変気色悪いのだけど、遺体が焼けあがって、遺灰がガンジス川に流されると、一斉にふんどし姿の少年たちが川に飛び込む。詐欺師の彼いわく、あれは遺灰に混じっている金歯や銀歯を拾っているのだという。遺灰が溶ける泥水の中で。。。

詐欺師といえど現地の人の口からこういう事実を聞くと、心に刻み込まれおそらく生涯忘れない。

死を隠さないインド

こんな感じで、バラナシ滞在中はほぼ毎日マニカルニカーに通った。朝早いうちに裏路地を抜けてたどり着き、太陽が高くなるとビールが飲めるところへ移動って感じ。昼間は火葬の炎も加わり尋常じゃなく暑いのだ。

そんなある日、同じような境遇の日本人看護師さんに出会った。彼女もメンタルの不調をきたして休職と復職を繰り返しているらしい。それで死にたくなると、彼女は「死を感じに」インドへやって来るという。

死を感じるためにここに来る。ハッとした。なるほど、怠け者の僕の足が毎朝マニカルニカーに向かってしまうのも、死を感じたいのかもしれない。

日本で遺体を見る機会は葬式に参列した時くらいだけど、それだってきれいに安置されたご尊顔を拝む感じだ。一方、インドは死を包み隠さない。ここマニカルニカー・ガートでは遺体はむき出しの状態で焚き火で葬られる。人間の身体が炎に包まれ、はぜて反り返り灰になっていく。その様子は昔読んだ「はだしのゲン」を彷彿とする。

さらに、ヒンドゥー教のしきたりで輪廻を外れる資格のない遺体は、石板にくくりつけられそのままガンジス川に沈められる。やがて水中で朽ちて石板からはずれた遺体は、浮かび上がってガンジス川対岸の河原に流れ着く。ガンジス川は片側だけ発展していて、その対岸は死後の世界を彷彿とさせる広大な河原が広がっている。(※この対岸は不浄とされ開発されない)

ここには牛や犬などの動物の遺体と一緒に、こうした人間の遺体も平然とそこにある。平和な光景と、ナマナマしい死が共存する場所。「死を感じる」ためにここ以上の場所が世界にあるだろうか。

うつ病になると「死にたい」と思うことは珍しくない。正確には「消えてなくなりたい」といった漠然とした感覚で、どこか現実味がない。でも、目の前で繰り広げられる「死をめぐる人間模様」は鮮烈で、それまでの死への認識を容易に上書きしてしまう。

まとめ

そんなわけでインドに行っても僕の人生観は変わらなかったけど、死に対する意識はより具体的で鮮明になった。今ではすっかりウツ抜けしたので死にたいと思うことはないけど、もしまた心を病んだり、またはそういう人と出会ったとしたら、インド以前とは違う生死感で向き合うだろうと思う。