他人の評価で自己肯定感を支えるのを止めた話

南の島でフラフラした生活をしている僕だけど、信じられないことにもう33歳。堅実な同級生たちは、ぼちぼち家庭をもって子育てに邁進している。

先月久しぶりに帰国して、そういう子持ちの友達を訪ね歩いたんだけど、最近の幼児教育のテーマは「自己肯定感を育む」であるらしい。

大切なことだ。

例えば職場で理不尽な扱いを受けたとする。「お前は仕事が遅いから残業代は払わない」などと違法行為に巻き込まれることは現代社会ではよくあることだ。

ここで毅然と対応し関係機関に事実を告発していくには、自己肯定感が必要。自己肯定感が低いと「そうだ、この程度の自分が残業代申請するのはおこがましい」と丸め込まれ、結果的に心を病むことになる。

もはや自己肯定感は、理不尽と批判に満ちたこの世でサバイブするのに必須のスキルと言えよう。

歪んだ自己肯定感

シンガポールに住みはじめたころは、この国の人たちは自己肯定感が高くて素晴らしいと思った。

自分の意見をハッキリ主張する人が多いし、理不尽な対応を受けて猛烈に抗議する姿を街でよく見かける。シンガポールは訴訟社会であることからも、泣き寝入らない国民性だと感じる。

ところが在住5年目になり、現地の人たちと深く関わるにつれて、実は思ってたのとちょっと違うことに気がついた。

自己肯定感とは本来「私には価値がある」という、自尊心の根底を支えるエネルギーだ。具体的な根拠は要らず、他人から承認される必要もない。誰が何と言おうと、自分の人生は尊重されるべきなのだ。

ところが「私にはあの人より価値がある」という具合に、自己肯定感を歪めている人が多すぎる。キアスの記事でも書いたけど、何かにつけて数値に落とし込み、他人と比較して自分の優位性を確認しないと気がすまないような人たち。

シンガポール人気質「キアス」

これは実は自己肯定感が低い人の特徴だ。自分に自信がないから、客観的な裏付けに飢えている。執拗に自慢ばかりしてくるのも同じメンタリティ。

自分が優れていることを確認したがるのは、相手より劣る恐怖に常に怯えている裏返しだ。

狭いコミュニティでの評価に篭もる危険

最近シンガポールで美人コンテストがあって、候補者の容姿に批判が上がっている。

超少子化社会のシンガポールで、女の子は一族郎党から可愛がられ、大切に育てられる。家族という小さいコミュニティで培った過剰な自信が、いきなり大衆の批判にさらされて、きっと彼女たちは傷ついているのではないか。

何事においても上を見たらキリがない。

世界チャンピオンには文字通り世界で1人しかなれない。しかも頂点に君臨できるのは一時的で、次から次へと現れる挑戦者に勝ち続けるには途方もない努力が必要だ。

こうした厳しい競争社会で、他人の評価によって歪んだ自己肯定感を支えるのは不幸な生き方だ。何においても自分より優れた人がゴロゴロ存在するのだから。

そこで陥りやすいのが井の中の蛙。

自分を無条件に評価してくれる小さなコミュニティの中だけでチヤホヤされ、実力とかけ離れた自信を持つ。そして心地よい身内の評価に甘んじた結果、批判をもとに努力したり改善を重ねて、高みを目指さなくなってしまう。

この状態を、僕が尊敬する漫画家 石黒正数氏は「駄サイクル」と表現した。言い得て妙だ。

向上心を自信にする

ナンバーワンにならなくてもいい。でもだからといって人は「もともと特別なオンリーワン」ではない。

そこで大切なのは

  • 自分のレベルを客観的に知る
  • 次のレベルに進むには何をすべきかを考える
  • 改善策を実行する

このサイクルを回していくことだ。僕は文章が下手くそだし、いくら記事を書いてもブログのPVが上がらない。それでもたまに頂ける感想や批判から、次にすべきことを考えて、手を動かし続けている。この過程は自信になるし、なにより成長を実感できる幸せな作業だ。

上を見たらキリがない以上、他人の評価で自己肯定感を維持するといつか破綻する。「駄サイクル」から脱却して、向上心を自信として生きたい。