僕が日本で働いていたのはそれなりに大きな会社だったので、ひとたびうつ病で休職が必要と診断されたらなんと6ヶ月も療養することができた。ありがたや。
それも3ヶ月経ち、4ヶ月経ち、残り日数が減ってくると、一向に良くならない自分の体調に焦り、苛立つ。
きっとこれは孤独なのがいけないんだ。そう思った僕は、家を引き払って東京郊外の実家にしばらくお世話になることにした。
実家には白いミニチュア・シュナウザーがいる。僕のことを学生の時から知っている気立ての良いやつだ。とはいえそこはお犬様なので、僕が企業社会で追い詰められて今ここにいることは理解してないっぽい。
人間はどんな関係の人であれ、相手がうつ病で休職中となれば腫れ物みたいに一歩間合いをとってくる。それで犬の彼だけが、僕が荒んだ学生だったときのままに、唯一自然体で接してくれる存在だった。
通勤練習
休職の期限が迫ってくるなか、僕は冬のまだ薄暗い時間に起きて、白い息をはきながら都心へ向かう。
基本的人権が成立していない満員電車で会社の最寄り駅へ運ばれ、いつもの自販機でいつもの缶コーヒーを買う。凍えた手を温めながら、黒い液体をなかば無理やりに胃に流し込む。空き缶をゴミ箱に突っ込んだ音が出発の合図だ。
意を決して駅を出て、スーツを着た別の種族の群れに混ざり、足早に会社へ向かう。もちろん休職中なのでそこに僕の仕事はない。
それでも僕は会社のビルをノロノロと一周する。あと二ヶ月でこの種族に適応出来なければ、この世界に僕の居場所はどこにも無くなる。
どす黒い焦りと不安がドロドロと全身に充満するのを感じる。自分の可能性がみるみる縮んでゆく。
人工睡眠
実家が都心から離れているので、暗いうちに起き出しても会社巡礼を終えて帰り着くのは9時過ぎだ。その頃にお犬様は朝の散歩を終え、窓辺でくつろいでいる。
母親が残しておいてくれた朝飯を食べ、冬の柔らかい日差しに溶けるように寝ている白いお犬様を見ていると、突然睡魔が襲ってくる。
これが睡眠のリズムを崩していけない。
当時僕はフルニトラゼパムという強めの睡眠薬に加え、満員電車に耐えるためにデパスという精神安定剤も服用していた。夜寝るべき時にはろくすっぽ効果がないくせに、こうやってふと安心した瞬間に寄ってたかって効いてくる。
傍から見ればおそらく気絶するような勢いでフローリングに倒れ込み、僕は深い人工の眠りに落ちた。
お犬様に耳をなめられて意識が戻ると、あっという間に7時間が経っている。家の中はすでに薄暗い。
睡眠薬による眠りは、おふくろの味に対するコンビニ弁当くらい異質なものだ。例え充分な時間眠れたとしても、神経は同じようには休まらない。ガシガシと異物感のある頭を抱えて伸びをすると、お犬様に急かされて立ち上がった。
透明で弱々しいかった冬の日差しは、いつの間にか鮮やかな朱色に染まっていた。秩父の山並みの上に、熟れたトマトのような真っ赤な雲が浮いている。
お犬様が首輪とリードをくわえて、早く散歩に行くぞと急かしてくる。「俺は社会に付けられた首輪をして上手く生きられないからここにいるんだぞ」などとブツブツ言いながら準備して、万物が平等に朱色に染まった街へ繰り出した。
散歩
お犬様の散歩コースはざっくり6パターンある。
実家に戻って夕方の散歩を受け持った当初は、気まぐれに縄張りをパトロールしているんだろうと考えていた。ところが彼はどうやらその日の僕のコンディションを察して、ご近所テリトリーで最高の場所へ案内してくれているようだ。
その日は、小高く土砂が盛られた建設現場で彼の足が止まった。今日の工事はもう終わったらしく、辺りは静かだった。
盛り土の山に登ろうという。僕は黙って従った。
太陽が秩父の山に完全に沈んだ頃合いで、朱色の空は夜の紺色と混ざり、見事なグラデーションをつくる。ちょうど見上げた高さに金星が光っている。
暗くなるにつれ、目をみはるほど星の数が増える。摩擦のない時間がサラサラと流れていく。僕らはしばし夕暮れのエンターテイメントに見入った。
あの星からしたら、僕の悩みや、馴染めないスーツの種族も、見えないくらい小さなものだろう。僕が社会復帰しようがしまいが、宇宙はなにも変わらずサラサラと流れていく。別の星には、別の種族が住んでいて、僕には想像もつかないような生活をしているかもしれない。
気付くと目の前にオリオン座がバカでかく輝いていた。お犬様が「どうだい!」と得意げな視線で見上げてくる。うん、最高だね。ありがとう。
そんな日本の美しい日に、僕は旅に出ることに決めた。