手品師が言う。
「それではマジックを始めましょう。まずはこの中からお好きなカードを1枚選んで絵柄を覚えてください」
ダイヤの5だった。僕は「ダイヤの5」と心の中で呟いて、カードを裏返しでマジシャンに返した。
さて、52枚のトランプから僕が偶然引き当てた「ダイヤの5」。このカードに何か意味はあるのだろうか。
とりあえずマジックの進行に影響ないのは手品師の表情から明らかだ。彼がもし占い師だったら、「ダイヤのスートは富や成功を表す」などと言うかもしれないけれど、このカードは僕の懐事情に直接影響しないだろう。
これが偶然ハートのエースだったら、そこに何か特別な意味があるように錯覚するかもしれない。でもハートのエースを引く確率も、ダイヤの5を引く確率も、1/52であることに全く変わりはない。
イジメは安易で効率的だからなくならない
ところが人間関係では、こんなふうに偶然自分の周りにやってきた存在に、特別な意味を見出さないといけない場面がたくさんある。
母親が言う。
「新しいクラスでお友達はできたの?」
偶然引いた「ダイヤの5」に意味を見出せそうかと聞いているのと同じなのに。あまりにも無意味な質問だ。
組織から解放されて毎日顔を合わせる必要がなくなれば、途端に疎遠になる人たち。こんな人間関係は「知り合い」と言うのが正しい。それなのに組織に所属している期間は、こうした知り合いに何か特別な意味を与えないといけない。
その人が僕の前に偶然現れたことに何か意味を与えないと、ただの知り合いを「友達」と呼ぶことができないからだ。
この意味付けが上手にできない人は、組織から疎まれ、場合によっては排除される。
新しいクラスで友達ができたのか、母親が息子を心配する理由もここにある。
じゃあ偶然現れた取るに足らない「知り合い」に意味を与えて、母親が満足するような「かけがえのない友達」をこしらえるにはどうしたら良いだろうか。
意味をでっちあげれば良い。
意味を作り出すのは簡単だ。グループを作ったり、秘密を共有したり、共通の敵をこしらえてイジメれば良い。要は「俺たち」と「それ以外」を隔てる壁さえこしらえてしまえば「壁のこちら側にいる俺たちは友達」と安易に感じることができるのだ。
これはイジメがなくならない理由の1つでもある。
いじめられっ子は、誰かをイジメることでしか維持できない烏合の衆の犠牲者。その犠牲は「知り合い」を「友達」と認識しないと維持できない、幼稚な組織運営の生け贄だ。
ここで、例えばクラスが大きな2つのグループに真っ二つに分かれてしまったとする。するとグループ間の断絶と争いはかなり深刻なものになるだろう。さらにグループ内もメンバーが多いだけに、統率するのが困難になる。
こんな事態と比較すれば、ただ1人を血祭りに上げるだけで、それ以外の全員が「友達」として成立するイジメが、どれだけ効率が良いかわかるだろう。これが、イジメ自殺のニュースで目にする、教師がイジメに加担する、もしくは教師が積極的にイジメを主催している理由である。
1人を血祭りにあげてクラスが「友達」としてまとまるのであれば、組織運営の責任者である教師にとってもイジメは安易な選択肢に成り得る。
「取るに足らない知り合い」は「かけがえのない友達」でありえない
クラスや職場のような偶然の出会いに支配された幼稚な組織が、いかに下らないかわかっていただけると思う。
僕は学校や職場で偶然割り当てられた知り合いを「ダイヤの5」としか認識することができない。
それにも関わらず、僕にとって取るに足らないクラスメートや同僚は、彼らにとっても取るに足らないはずの僕を、友達として認識しようとあれこれ試してくる。彼らはそれ以外に烏合の衆と付き合う術を持っていないのだ。
グループに誘ったり、またはグループからあえて排除したり、無価値な噂話を共有したり、または僕の噂を流したり、イジメに参加するように圧力をかけてきたり、またはイジメの対象にしようとする。
なんと無意味で無益な人間関係だろうか。僕はここに強い違和感を感じる。
もう組織運営に意味付けが必要な時点で、この場所は烏合の衆なのだ。そこに本来の友情みたいなものは一切ない。
実際にそんな幼稚な組織運営が始まってしばらくすると、グループや、グループ間のいざこざや、秘密の共有が、スーパーコンピューターでも処理できないレベルに複雑化して、劇的に破綻するケースも少なくない。
こんな無意味で無益な人間関係とは距離をおくのが精神衛生上良い。距離を置く方法については別の機会にまとめるとして、とりあえず日本で生きづらい最大要因「人間関係」について、問題の本質はここにある。
まずは「取るに足らない知り合い」を「かけがえのない友達」と無理矢理認識しようとする幼稚な癖を止めるのが第一歩だと思う。