日本で働いていた時は海外旅行に行きたくてしょうがなかった。
航空券と上司の怒りをセットでお買上げし、一週間の弾丸で北米や欧州に飛んだもんだ。今思うと1週間程度の休暇を長いと思ってた社畜精神がヤバいし、それで怒る上司も狂ってる。
ところが普通に2週間以上休暇を取れる現在、僕の海外旅行熱はすっかり覚めてしまった。旅行らしい旅行にはもう2年くらい行ってない。
「放浪」を経験してしまうと、帰る日とホテルと観光ルートが全部決まっている海外旅行が、かったるい武者修行に思える。なにしろ時間が限られているから、アレもコレもと貪欲になって疲れ果てるまで街を歩きまわってしまう。
これは旅行に行かなくなった原因のひとつだ。
道端でビールでも飲みながら現地の人の暮らしぶりをボケーっと眺めるという贅沢な時間の使い方を覚えてしまうと、もう忙しい「海外旅行」には戻れない。おカネもかかるしね。
ところが最近別の原因に思い至った。
単純に僕は日本にいたくなかったんだな。
当時は日本から離れる唯一の手段が海外旅行だったけど、いまはシンガポールに定住しているから旅行に行かなくても満足なわけだ。
常識の圏外
初めての海外は大学2年の時に、バイト代を貯めて行った韓国ソウルだ。HISのパックツアーだった。
クルマが日本とは逆の右側通行だからちょっと違和感があるものの、ソウルの町並みは日本とそう変わらない。ところがコンビニに入ると、ケータイで彼女と喧嘩しながらレジ打ちする青年が働いていたり、頼まないとレジ袋に入れてくれなかったり、日本の常識が通じない。
「普通」のハードルが高くて社会に馴染めずにいた僕に「常識の圏外」で過ごすソウルの体験は大きな希望だった。
「普通」に振る舞い「普通」に暮らせているか常に周囲から見張られているような緊張感。「普通」から外れる恐怖。
「常識の圏外」である外国ではこうした圧力を感じない。初めて行った外国で、僕は今まで味わったことがない自由を知った。
まぁこの手の自由は、海外でハメを外して現地の警察のお世話になるバカな日本人と同じマインドなんだけどね。彼らも周囲の監視の目が緩くなって、普段は押し殺している本性がでちゃうんだろう。
「普通」に締め上げられる人たち
歳があがるにつれ、満たすべき「普通」のハードルはどんどん高くなる。
クレヨンしんちゃんにしろ、ドラえもんにしろ、子供の頃から「普通」の刷り込みが始まる。だから30歳にもなれば、当然自分も結婚して子供が産まれて一戸建てを買うのだろうと根拠なく信じることになる。
ところがいざ三十路を迎えると、思い描いていた「普通」は遥か高く、もはやもがいても手が届かないことを思い知る。
挑戦に失敗した落胆ではない。当然手に入ると思っていた人生すら実現できない絶望感。
長時間労働に耐えられない。給料が安すぎる。結婚できない。子供を授からない。。。
たまに帰国して合う友達やTwitterにいる人の話を聴いていると、大人として満たすべき高すぎる「普通」に苦しいんでいる人がたくさんいる。もはやそれは「普通」ではなく「理想」だ。
彼らは達成困難な「理想」に精神を締め上げられている。
人生は比較できない
多民族・多言語・多宗教のシンガポールでは「普通の人生」を定義するのが難しい。人それぞれで曖昧な感じになる。ここで僕は「普通」から外れる恐怖から開放されて、理想の人生について自由に考えることが出来るようになった。
本当に結婚したいのだろうか。独りヤモメと後ろ指さされたくないから既婚者になりたいんじゃないか。
本当に子供が欲しいのだろうか。旧友が次々と出産していく孤立感から開放されたいだけなんじゃないか。
本当にマイホームがほしいのだろうか。マウンティングしてくる持ち家派と張り合いたいだけなんじゃないか。
普通じゃない人生を歩む恐怖心から開放されると、自分の理想の人生は結婚・出産・マイホームとはぜんぜん関係ないことに気づけた。
「日常」が崩壊した放浪の日々。青空をつまみに散歩しながら飲むビール。好きなだけ本を読み漁って、自分の体験と混ぜこぜにしてこしらえた文章。お絵かきと編み物。
僕に幸せを与えてくれるのはこういうものだ。
幸せは比較できない。
無駄に他人と比べず、社会の多数派に流されず、自分は何をしている時に幸せを感じるのか見極める。あとは手を動かして、脇目を振らずに進むのみだ。
「普通」から開放されて自由な人生を楽しもう。