モノ、仕事、人間関係でミニマリストになる

「ミニマリズム」って本来モノへの執着をなくして充実した生活をしよう!みたいなノリなのに、いつの間にか、こだわりの一品に囲まれた生活をしよう!みたいに履き違えられていると感じる。

ミニマリストを扱ったコンテンツでも、実践者が自慢の品を次々に紹介していくスタイルをよく見る。いくら所有物が少なくても、それじゃ逆にモノへの執着心が強くなっていないか。。。

モノを減らせと言いつつ、逆にモノを買わせる。

ミニマリズムがマーケティングに利用されてしまっている。これじゃ環境に優しいとか言いながらエコカーを売るのと同じじゃないか。新車の製造と旧車の廃棄で、微々たる燃費向上でペイできないほど環境負荷が発生するのに。愚かだ。

それでもこの前帰国した時に書店に寄ったら、断捨離、ミニマリズム、お片付けみたいな本がたくさん並んでた。持ち物を減らしてスッキリするのが随分長いこと流行っているんだな。

乗るしか無いこのビッグウェーブにあやかって、今日は「モノ・仕事・人間関係」へのこだわりを捨てると楽になるよって話を書く。

強迫神経症がきっかけでミニマリストを目指す

発達障害ADHDの部屋は荒れる傾向にあるという。 漏れなく僕も片付けができない。

小学校の頃は、教室の机の奥にプリントや練り消しや給食のパンやセミの抜け殻が、地層を形成してまるごとカビているような少年だった。

ADHDで部屋や物やデータが整理できない

今でもちょっと気を抜くと、あっという間に大地震後のドン・キホーテみたいな部屋になっちゃう。しかも、そんな汚部屋に違和感なく住めちゃう自分にガッカリだぜ。

そんなわけで、そもそもモノが少なければ、散乱してもエントロピーの増大を抑制できるだろうと考えた。これが現在僕がミニマリストになりたい原動力だ。

でも実際に持ち物を減らし始めたのは、ずっと前、日本で強迫神経症になった時だ。

朝に家を出て最寄り駅へ向かう。ドアの鍵、窓の鍵、ガスの元栓、こたつの電源、風呂場の水漏れ。。。出かける前に何度も確認したはずの、そんな細かいことが心配で心配で、居ても立ってもいられなくなる。

そして駅から家に引き返す。もちろん10分前に全部確認したので問題ない。

で、また駅へ歩きだす。するとまた同じ不安に駆られる。。。

この繰り返しで時間に余裕があったはずなのに会社に遅刻する。強迫神経症はうつ病や不眠症と同じように、神経伝達物質ドーパミンの働きの異常が原因という。僕の場合はこれがうつ病へのプロローグであった。

まぁ強迫神経症の話は別の機会にするとして。

当時の僕は、それならもし家が空っぽで何もモノが無ければ心配が減るのではと考えた。たとえ火が付けっ放しでも、燃えるものが何1つ無ければ火事にはならぬろう。

それでモノを捨て始めた。

仕事への期待をミニマルにする

その当時、僕にはフリーターの彼女がいて、その人は仕事をただの収入源としてしか考えてなかった。やり甲斐や成長なんかはそもそも眼中になく、時給と労力が割りに合っている仕事を季節ごとに転々としていた。彼女と交わした会話からは学びが多く、今でも思い出しては色々気付きを貰っている。

そんな話はどうでもいいとして、その頃の僕は彼女と真逆で、収入はもちろん、社会人としての誇り、技術者としての成長、将来の希望、親を安心させること、などなど、仕事に多くを求めすぎていた。

ミニマリズムは本来モノを減らすことだけど、仕事に対しても応用することができる。

日本の労働環境に病み、シンガポールに転職した今では、当時の彼女のように仕事を単なる収入源としてしか考えないようにしている。クビにならない程度に最低限の作業だけこなして定時でサクッと帰るし、上司に何か言われても気にしないし、職場の人類どもに一切気を使わない。

まだ明るいうちに会社を出て、ビールを買って青空の下で飲むと、それだけでクソ幸せ。

時間に余裕があるから平日にテニスやスケボーの練習ができる。先週出来なかったことを今日初めて出来るようになるととても達成感があるし、そういう喜びを一緒に受け止めてくれる趣味の仲間もできる。

俺は!今!生きてる!って感じがする。日本の社畜時代には味わったことのない感覚だ。

さらにこのブログ。好きな本を時間をかけてじっくり読み漁って、気に入ったプロ作家の文章を真似して書いている。これは研究とアウトプットのバランスが良いし、ちゃんと努力しただけPVやAdsenseの収入もほんの少しずつだけど増えている。最近、貴重な読者の方々から直接コメントを頂けることも多い。

こんな風に、成長とか喜びみたいな面倒くさいやつは、仕事とは関係なくおカネを使って楽しく満たせばいいんだ。

人に対する期待をミニマルにする

最高に仲が良い女友達だったのに、恋人として付き合い始めた途端に関係がギクシャクして、短期間で破局。恋人と親友を同時に失うパターンは結構よくある。

えっ?

俺だけ?

そっか…。

まぁいいや。続けますよ(=^・・;^=)

そこで大切になってくるのが「知り合い」という距離感だ。

「友達」になると求めすぎるので「知り合い」という距離感を大切にする

知り合いと言うのは、例えば職場の関係。一緒に仕事をこなして、毎月問題なく給料をもらうためのパートナー。だから問題なく仕事をこなしてさえいれば、自分の趣味を理解しなくても、話があわなくても、多少タバコ臭くても、何とか我慢できる。

ところが友達となるとこうはいかない。

友達としてやっていくには、少なくとも趣味や価値観は合っている必要があるだろう。でも、そこさえ満たしていれば、多少タバコ臭くても、ファッションのセンスが理解できなくても、一緒にいて楽しい人はたくさんいる。

ところがこれが恋人となってくると、タバコの匂いが耐えられなかったり、ファッションのセンスが合わないだけで、趣味や価値観が合っているにもかかわらず、一緒にいるのが一撃でツラくなる。

これはどうしてだろう。

それはその人に「期待」し過ぎているからだ。

人間関係に期待するとロクなことがない。いかなる他人も、僕の欲求を満たすために生きているわけではない。人それぞれ、自分自身だけが満足するように毎日を過ごしている。

にもかかわらず、友達や恋人といった近しい関係になればなるほど、そういった「赤の他人」に自分の要求を満たし続けるように、過剰に期待してしまう。

こんな極端なメンタリティでは関係が破綻するのは当たり前だ。

そこで僕は「知り合い」という距離感を大切にしている。その人と共有する人間社会で、必要とされている最低限の要素、例えば仕事、それさえ満たしていれば問題なく日常生活を送れるパートナー。

その人に対してその要素以外の不必要な期待は、全て断捨離してしまう。

そうすることでその人間社会、その目的おいては、絶対的にその人を信頼できるようになる。同時に別の分野でそういった人をたくさん持てば良い。

経済や投資における格言で「卵を同じ籠に盛るな」というのがある。相場はどう動くのかわからないのだから、一点掛けするのではなく、多種多様な金融商品に分散して投資しましょうと言う教えた。

これは人間関係も同じで、信頼は壊れやすいものなんだから、たった1人に必要な価値観のすべてを期待するのは危うい賭けだ。それを踏まえて、大切な人であればあるほど、その人に期待する要素を断捨離して、より安定で寛容な関係性に落とし込む。

これが僕が思う人間関係におけるミニマリストとしての態度だ。

そんなわけで

モノ、仕事、人間関係に期待過剰になるのを止めて、いらない部分を削ぎ落とし、本当に大切な部分だけに自分のエネルギーをフォーカスすると、気楽に生きられる。

それでは寂しくて満たされないと思うだろうけれど、全方位から自分の要求を満たすように物や仕事や人間関係が動いてくれる事はそもそも絶対にない。

無謀な1点賭けに挑戦して、全てを失うのも若いうちはスリリングで良いかもしれない。でもいよいよ体力が落ちてきたと思うならば、最低限譲れない部分だけ好みの対象に求めて、後は気楽に受け流すような人生はいかがでしょうか。