自分が認識している世界の外側に、別の世界が広がっている感覚

高校と大学では山に登るサークルに入っていた。

ある日の夕暮れ時、僕は標高2000mくらいの山頂付近にいた。今夜はここでテント泊だ。空は曇ってて星は見えないんだけど、突然サッと霧が晴れて外界の夜景が目に飛び込んできた。

ちょうどそれに合わせたように、外界の街で花火大会が始まった。

最初、それが打上げ花火だと気付くのにワンテンポ遅れた。2000mから見下ろす花火大会は、まるで断末魔の線香花火みたいにちっぽけで、地上で見上げた時の迫力はまるでなかった。

地方都市の夜景を背景に、ビー玉みたいな光の粒が広がっては消えていく。おそらくあの場所は、浴衣姿のカップルや、子供連れ、地元のヤンキーなんかで混み合っているのだろう。でももちろん、そんな人間の姿は遠すぎて見えない。

ミニチュアの街の、ミニチュアのイリュージョン。

まるで自分だけが異世界に飛び出して、フワフワと元いた場所を俯瞰しているような感覚。明日になれば下山して僕もあそこへ溶けていくというのにね。

なぜ登山が好きかといえば、人間社会をちっぽけに俯瞰するのに癒やされるんだよね。嫌なことや、面倒くさいことも、ここに来れば見えない。あの街に僕がいてもいなくても、ここからはわからない。僕の悩みや苦しみなんて、そんな誤差みたいなもんだ。

なんだか全てがどうでもいい些末なことに思えて、下山してしばらくは大らかな気分で過ごせる。

より高い視点

そんなわけで、人間関係や理不尽な社会にうんざりしたら山に登ると良い。

でも生命とか物理法則とか、もっとデカい存在に絶望したらどうすればいいだろう。

僕は同じ場所で、同じ人と、同じことをやり続けるのが最悪に苦手だ。数年に1度、全部ぶっ壊して総とっかえしたい激しい衝動にかられ、たまにうっかり実行しちゃう。

人生追い詰められてもお手軽に生まれ変われる。物理的に死ぬのは無駄。

そんなんだから結婚生活とか子育てには絶望的に向かない。

などと言うと「遺伝子を後世に残さないと人生の意味がない」などとのたまう、ゲスの極みオヤジが湧く。

マジでくだらないと思いながらも、ふと立ち止まってしまう。

遺伝病と発達障害と精神疾患のカルマを背負った僕の遺伝子も、先祖代々何千年、何万年と受け継がれてきた情報資源だ。

僕の勝手な都合でこの悠久の流れを止めていいのだろうか。

だからといって無理なもんは無理なんだよ!!バーーーカ!!

面倒くさい!面倒くさい!面倒くさい!

わーーー!

こんな風に生命とか物理法則に絶望したら、山よりずっと高い視点が必要だ。

ヒトはそれを「神」と呼ぶ。

この世は「神」の作り物

「風の谷のナウシカ」や「ソフィーの世界」みたいな、自分が認識している世界の外側に、別の世界が広がっている物語が好きだ。映画Matrixなんかも同じコンセプトだよね。

これらの作品は僕の人生観に大きな影響を与えた。大作なので読破には体力が必要だけど、鄙びた温泉旅館にでも篭ってじっくり読み直したいな。

さて、いま僕らが生活しているこの世界の外側に、実は全く別のもっと大きな世界が広がっている。そして、この世界は、外の世界による「作り物」にすぎない。これを「シミュレーション仮説」という。

などと言うと一気にいかがわしく感じるでしょ。

でもこの世をより大きな存在(神)の創造物とするのは、旧約聖書と同じコンセプトなんだ。つまり、少なくともエルサレムに聖地を置く3つの宗教を信じている、この世で優位に大勢の人々は、この世を神の創造物として見ていることになる。

これって最強じゃないか。

だって僕らがそもそも神みたいな大きな世界の作り物ならば、自分の意志で子孫を残すか否かなんてほんの些末なことだ。僕らがいくらジタバタと世界を変えようとしたところで、そんなの誤差みたいなもん。「神」の意志や、システムのバグなんかで、そんなジタバタは一瞬で無に帰す。

それならば自分の小ささを受け入れて、小さいなりに楽しいことを見つけていけば良いのだ。

僕はなんの宗教も信じてないし「風の谷のナウシカ」と「ソフィーの世界」に出会う前までそもそも宗教を社会悪と思っていた。

でも「外の世界」からの視点は、自分の人生とこの世界を客観的に捉える上でとても大きなチカラになる。