発達障害持ちの子供に必要なケアについて、医師が解説しているサイトを読んでたら涙が出てきた。
つらいことだらけだった僕の幼少期。もし周りの大人が僕の特性に気づいて、必要な配慮してくれていたら、今でも心に突き刺さって抜けないトラウマを避けられたのではないか。子供の頃の辛い体験はみんな無駄だったんじゃないか。
そう思うと悔しくてしょうがなく、久しぶりに泣いた。
発達障害をテーマにしたドキュメンタリーなんかでは、もう退職したようなおじいちゃんやおばあちゃんが、二次障害であるうつ病や睡眠障害で病院を訪れたときに、そういった発達障害を持っていることを医師から宣告され、長年自分はちょっと変わってると思っていた原因が判明して愕然する場面がある。
子供はもちろん、大人であっても、自分が発達障害であると自力で気付けるのは、結構稀なことのようだ。そういう意味では、まだ発達障害という言葉すら一般的でなかった僕の子供時代に、周りの大人に期待するのは筋違いかもしれない。
それでも今はインターネットがある。
僕は仕事でミスばかりして落ち込んでいた時に、何気なく見ていたニュースサイトで大人の発達障害の存在を知った。その時は僕が当事者であるなんて夢にも思わず、当時オンライン上でできた自己診断テストを何の気なしに受けてみた。
くだらない占いや、心理テストのような感覚だった。
そしてその結果に驚愕した。そこには発達障害の可能性が高いので医師の相談を受けるようにとアドバイスされていたのだ。
たかがネットの診断テストで発達障害の可能性が高いと言われても、僕は素直に信じなかった。何せ、くだらない心理テストのような感覚で試してみたにすぎない。その時はまだミスが多いとは言え仕事がデキていたし、同期の中では優秀な部類だった。正確な診断が下せるわけがない。そんなふうに簡単に片付けてしまった。
それでもこの件は僕の記憶に深く刻まれた。
それから数年して、僕はうつ病になり会社を辞めることになった。会社を辞めると暇だ。とにかく時間だけがドロドロと流れていき、将来の可能性が1秒1秒刻一刻と縮んでゆく。
そんな時また僕は発達障害のニュースに出くわした。その時の記事は、仕事でミスが多く社会人としてつまずいている人は発達障害かもしれないと書かれていた。そしてニュース記事の中で発達障害の特徴として挙げられていた項目に、僕はなんと全て当てはまっていた。
この記事に書かれている通り、発達障害だから社会人生活につまずいて、二次障害としてうつ病になったのではないか。このとき初めて自分が発達障害なのではないかと疑問を持った。
ところがその後も、積極的に自分が発達障害であると認めて、必要な対処方法を実践する事はなかった。
「普通」から転落する恐怖
夏休みが終わり、学校に行くのが辛い子供たちが自殺する日として有名になってしまった9月1日。
毎年心ある人たちがそういった子供たちの安全地帯になろうと情報を発信している。じゃあ漏れ無く学校に馴染めなかった僕が、子供のころ9月1日に図書館や教会に助けを求めたかといえば、求めなかったと確信する。
それは日常を逸脱すると、一撃でその後の人生が狂ってしまうことを知っているからだ。
それは大人も同じで、当時の僕は発達障害という「障害者」になってしまうことに、途方もない恐怖を抱いた。その恐怖心が邪魔をして、ネットに先人の工夫や対処策が蓄積されているにもかかわらず、それを頑なに見ないようにしていた時期がある。
それでも時が経ち、もはやそんな情報を頼りにしないと生きていけないレベルに症状が悪化すると、ネットに蓄積された情報の豊かさにただただ驚愕し、感謝した。
情報発信していく決意
そして僕なりの対処法を身に付けた今、今度は発達障害と気づいておらず、ただ社会の中で萎縮して苦しんでいる人たちに、僭越ながら自分のメッセージを伝えたいと言う欲求を持った。
こんな僕の体験でも、同じような人は結構いると言う感覚をTwitterで得ている。そんな僕の実体験、工夫、生き様をさらけ出せば、今まさに困っている人の役に立てるのではないかと思ったんだ。
具体的には次の2つの方向性を持ってこのブログを運営している。
1つ目は、自分の体験とその時どのように感じたのかを克明に記すこと。僕は医者でも何でもないけれど、僕自身がどういう風に感じてどのように対処してきたのかということを文字にすることができる。それが同じような症状持ってる人に届けば、何か役に立てるのではないかと思っている。
2つ目は、「普通」になじめないのであれば、普通の定義が曖昧な多民族国家に移住すると楽になると体験を語ること。
小手先の工夫や努力で乗り越えられる壁というのは限られている。根本的解決とは、原因に対処するのではなく、原因そのものを取り除いてしまうことだ。
発達障害を苦しめる「普通」や「常識」と言う概念をから逃げる事。それは具体的には「普通」の定義が曖昧な多民族国家に移住することだと確信している。
そんなわけで
わざわざ診断を受けなくても、とりあえず発達障害の症状を緩和する工夫を実践すれば、少しだけ日常がラクになるはず。
幼少期に適切なケアを施してくれなかった親に恨み節をぶつけることもできる。だけど、それは今の自分にとって不毛なことだ。だから僕はまだ発達障害に気付いていない人に情報を発信していきたい。そっちの方が、僕の経験した苦労を、ポジティブに活かせる。
もう悔し泣きはしたくない。