その日の朝、僕は京急品川駅の階段で倒れた。
この時期、仕事に限界まで追い詰められていた。
早朝覚醒で目覚ましより早く目が覚める。あたりはまだ薄暗い。過敏性大腸炎で下痢しないよう、トイレで全力を尽くす。便秘と下痢を繰り返したせいで痔になってしまい、あまりの痛みに顔をしかめた。
冷や汗をバスタオルで拭い、モソモソとスーツに着替え、いつもの上り電車に乗った。湿度の高い車内の空気。聴覚過敏でガンガン響くアナウンス。押し合いへし合いの満員電車は、ようやく乗換駅の京急品川に到着した。
ドアが開き、ゴミが溢れるかのように黒いスーツの群れが吐き出されていく。僕も群衆の流れに身を任せ、JR線に乗り換えるべく階段に向かう。
そこで突然視界がダブって真っ直ぐ立っていられなくなり、前のめりに倒れた。視界の全てが二重に見えてユラユラと揺らいでいる。
状況を理解できない。貧血ともまた違う感覚。立ちくらみというやつだろうか。
朝の人混みで突然倒れたので、革靴で蹴られた背中が痛い。心ある女性が手を貸してくれたものの、自分の状況が理解できず混乱していたので、上の空でお礼を言い介助を断ってしまった。
なんとか壁際のベンチに自力で倒れこんだ。まだ視界がユラユラ2重になっている。どうやら眼球がグルグル勝手に動いているようだ。ストレスによる自律神経失調症。
「せっかく新卒で正社員になったんだ」「まともに生きなければ」「将来どうするんだ」「親に心配かけるな」
「普通の人生」から堕ちる恐怖心に突き動かされてこれまで我慢してきた。それもどうやらここまでのようだ。しばらく目を閉じ気持ちを落ち着けると、ケータイを取り出し上司に欠勤の連絡をした。
日本脱出
僕はまた京急品川駅のホームに降り立った。
でも今日はラフな格好にリュックサックという出で立ち。これから成田空港へ行き、フィリピン・セブ島に飛ぶのだ。
あれから程なくして僕は会社を辞めた。
それで部屋に引きこもって呼吸する屍と化していた。会社を辞めればラクになるだろうと思っていたけど甘かった。もちろん身体は楽になったけど、挫折に自信を砕かれ、毎日何も出来ず、先細っていく将来の可能性に焦りが募る。
そうやって数ヶ月の人生を棒に振ったある日、Skype英会話の先生からチャットが来た。6ヶ月間毎日欠かさずに授業を受けてたお気に入りの先生だ。
僕が突然クラスを辞めてしまったので、心配してプライベートのアカウントから連絡をくれたのだ。
モソモソとベットから這い出して通話の呼び出しに答えた。今の状況を説明すると「セブ島に来なさい」と。その場でなかば強引にセブパシフィック航空の航空券を買わされ、一週間後、僕は重い体を引きずってセブ島へ飛んだ。
うつ病の特効薬「なんとかなる感」
セブ・マクタン空港には定刻に到着した。しかし待てど暮らせベルトコンベアが動く気配はなく、預け荷物が出てこない。機内持ち込みも出来るのに、取り回しが面倒くさいのでリュックサックを預けてしまったのだ。判断をミスった。
どうやら別便も同じ状況らしく、ターンテーブルの周りには荷物待ちの人だかりができた。
着陸から30分ほど経ってようやく動きがあった。屈強な男性陣が人力で荷物を抱えて現れたのだ。カートくらい使えばいいのに。これにはどよめきが起こった。
覚えたての英語を使ってみたい衝動にかられ、お兄さんに聞いてみるとベルトコンベアが全部故障して使い物にならないらしい。全部壊れるまで修理しない、いや、むしろ全部壊れても修理しないイサギの良さ。
これがフィリピンの洗礼だった。
フィリピンはなんだか空気がユルい。緊張感に包まれた日本から飛んで来ると、特に仕事している人たちのユルさが目立つ。
道が舗装されていないようなエリアには、ぶっ壊れている信号がアチコチある。そういう交差点には交通整理のオッサンが立っているんだけど、このオッサンはもっぱら日陰で休んでいるだけ。交通を整理する気などサラサラない。
そんなんだから交差点は大渋滞。
すると渋滞に捕まったクルマにストリートチルドレンたちが雑巾片手に近寄ってくる。窓拭きしてチップを貰おうというのだが、彼らが手にした雑巾は拭くと逆に汚れそうなしろものだ。実際、雑巾は「ほどこしをくれ」というサインでしかなく、キチンと窓をきれいにして対価を貰おうという気はないようだ。
ビールを買って、歩きやすいとはいえないセブの街を散歩していると、そこかしこで人が寝ている。犬も寝ている。猫も寝ている。昼間っからビール飲んでる自分が、起きているだけまだマトモな気にさえしてきた。
「なんとかなる感」が満ちている。あくせく働かずとも、ただ生きていればなんとかなる。
セブ島についてからこの感覚が湧いてきて、波があるものの僕はメキメキ元気になっていった。
結局何をするでもなく1ヶ月もセブ島でグダグダしていた。後半はもう普通に活動できるレベルにまでメンタルが回復し、ジンベイザメと泳ぎに行ったり、スキューバ・ダイビングの資格を取ったりもした。
燃えるような南国の夕日に、ヤシの木のシルエットが美しい。そんな空を見上げて缶ビールを飲み干すと、ただ生きてることの喜びが心に満ちる。
それ以来、セブは僕にとって特別な場所だ。