シンガポールは人の出入りが激しいので、仲の良い人ができても数年すれば別の国へ出ていってしまう。僕のように在住6年目になればもう長い方だ。
まぁそんなシンガポールの事情は特殊だとしても、そもそも大人になってから「親友」を作るのは難しい。
個性や人格が作られる思春期は、自我の境界線が曖昧で柔らかい。だから少しくらい価値観が合わない人とでも、衝突する性格をお互い柔軟に丸くして、仲良くなることができる。
ところが学校を出て働き始めるころには、すでに自分がどういう人間なのか確定している。だから性格が合わない人にあわせて柔軟に丸くなれないのだ。
大人になるとそりが合わない人とはどうやっても合わなくなる。
だからといって最初から自分と価値観がバッチリ合う人はそうそういない。新しく「親友」と呼べるような人を作るのは、自我を確定させてしまってからでは遅いのかもしれない。
ずっとそう思っていたんだけど、最近別の理由を思い至った。今日はこの辺の人間関係について書こうと思う。
同じスタート地点から未来を見ていた
同じ学校に通っている時点で、大体は同じような育ち方をしている。少なくと僕はそう信じていた。
幼少の頃から現役で国公立じゃないと学費が出せないと明言されていた僕のような子供もいれば、2浪して入った私立の薬学部を1年遅れで卒業した友達もいる。
僕らの教育費の差はおよそ2000万円。
親の懐事情によって、明らかに努力だけでは乗り越えられない格差がある。それは一定の成功者が多いシンガポール在住日本人が、有名私大卒ばかりなことからも実感する。
本当は経済状況や健康状態で優劣があるにも関わらず、当時僕はみんな同じスタート地点に立っていると錯覚していた。
だから当時の友人達とは未来の話題が多かった。合宿の計画や進学の悩みなんかね。
単なる世間知らずといえばそれまでだけど、不平等な部分にフォーカスするよりも、当時の友人とは「一緒に楽しいことを計画して成長していこう」というような未来志向で良い関係を築けていたと思う。
大人になってから親友が出来ないわけ
中学生や高校生が過去に積み上げてきたものなどたかが知れている。
ところが社会人になってからの人間関係というのは、ここに至るまでに何をしてきたかで評価が決まるところがある。
よくマウンティングと言う言葉が使われる。過去に何をやってきて、どういうステータスを既に持っているのか。手持ちのカードを比べあうパワーゲームだ。
今のステータスが微妙だとしても、10年後華やかに返り咲くかもしれない。
でもそんな事は勘定には入れず、今この瞬間にどういったステータスがあるか。大人になるとそれを前提に関係が進展していく。
そこには「一緒に成長していこう」というスタンスが抜け落ちている。
こんな態度では「弱点まで認めて補い合う」ような親友ができるはずがない。
典型的なのが婚活市場のマッチング。
年収や学歴や容姿がリスト化されて、まるでこれからの成長と言うのは加味されない。結婚こそ、今後何十年もの付き合いになるんだから、むしろ伸びしろを評価した方が良いと思うのだが。
それとは真逆に、完成品としてパートナーを求めている感がある。
いつまでも夢を語っていられる友達は貴重だ
まぁ僕も33歳だし、いつまで夢見てるんだとか、つまらないことを言ってくる人がいる。
でもね。未来の可能性を見失ったら、それはもう現状維持しかない。現状維持の人生なんて、これほどつまらない事は無い。さらに現状維持に甘んじた時点で、実は緩やかな下降線をたどる。
衰退への道。
最近、入れ替わりの激しいシンガポールではすでに旧友と呼べる人たちと食事したんだけど、話はこれからの将来どうやって楽しく生きていこうか、そんな未来志向の話が中心だった。
今持っているカードを1枚1枚切って、どっちが強いか比べ合うような不毛なコミニケーションはなく、これからどんなカードを持っていきたいか、そのカードをどのように手に入れたらいいか、そんな未来を見据えた有意義な会話だった。
これはとても良い幸せな時間だった。
僕は未来を語れる人たちに囲まれて、これからも生きていこうと思った。