小学生の1割が発達障害をもっている可能性があり、何らかの支援が必要である。そんなニュースを読んで強烈な違和感をもった。具体的には次の2つ。
- 大衆に同化できないと障害なのか?
- 支援してでも大衆に同化させるのか?
結局、みんなと一緒に同じことをしないと「障害者」にされてしまい、支援という名の「制裁」を加えられる。ところが発達障害は脳の構造による特性のため、社会的な圧力で「矯正」できるものではない。
「みんなと仲良く出来よるようにお手伝いします」っていうのは残酷な人格矯正に他ならない。
今日はそんな発達障害を取り巻く困った社会認識について書く。
障害じゃなく個性だ!
最近LGBTとして話題になる性的マイノリティーの人たち。
日本人の7.6%がLGBTと言われているし、米国は平均すると人口の3.6%ながら、州によっては10%を超える場所もあるという。
宗教的な価値観も相まって、長らく性的マイノリティーは「障害」とみなされ「制裁」を加えられ「矯正」されてきた。そんな暗黒時代に当事者であることを告白することは、命の危険を伴うものだったらしい。
ところが大衆の同調圧力に負けず、当事者が声を上げ戦ってきたからこそ、近年は法律や社会制度の方が多様性に対応する方向に世界が動いている。
先天的な特性である発達障害をとりまく社会も、このように改善されるのが望ましい。そのためには声をあげ、戦わなければならない。
そう信じてこのブログをやっている。
そのための最初の一歩は、発達障害当事者こそが、自分の特性を「個性」として認識し直すことだ。
「自分には障害がある」と思っているのと、「自分は個性的だ」と思っているのとでは、自己肯定感が全然違ってくる。僕みたいに自己肯定感を崩壊させて二次障害のウツ病を患わぬよう、発達障害は個性!
まずはここからスタートだ。
大衆に合わせる時代じゃない
発達障害持ちは仕事がデキず、疲れやすいという。これが自他共に「障害」と認識する所以だ。
僕も朝からガッツリ疲労感を抱えて出勤し、全く手に付かないやるべき仕事を後回しにして、この文章を書いている。脳が雑念でザワザワし、ADHD的な多動で貧乏揺すりが止まらない。
まだ午前中なのにグッタリだ。
ところが、休日の僕は違う。
「翌日何時に起きても良い」と認識していると、穏やかな質の良い睡眠を得られる。翌朝シャッキリ起きて、近所のカフェにブログを書きに行く。一通り作業したらスーパーで肉と野菜を買って、ブランチを料理しながら昼ビール。アルコールが廻って腹も膨れ、良い気分で昼寝。午後は本当に気の合う友達と出かけ、夜はテニスの練習。
家に帰ると充実感でいっぱいだ。
要は「大衆に同化する」のが苦手で疲れやすいだけ。
大衆が起きる時間に起き、大衆が指定した手順で仕事し、大衆が定めた時間に食事し、大衆に擬態して会話する。感覚過敏があると大衆に合わせた照明、大衆が好む音量、大衆向けの香水なんかも、時に疲労の原因になる。
自分の個性が苦手としている作業を、苦手な環境で朝から晩までやってるわけで、そりゃ疲労するわ。
昼寝したりちょこちょこ休憩しながら、自分が情熱を持てる作業に没頭すれば、発達障害持ちでも疲労感と戦わずにクリエイティブな活動ができる。
「共同作業」と「仕事」は関係ない
性的マイノリティーLGBTが世界中で声をあげ、社会制度を変えつつある。具体的には「結婚」という概念を、「出産子育て」と切り離したのがデカい。
一緒にいたい人達は性別に関わらず、場合によっては人数に関わらず結婚すればいい。一方で子供を産み育てたい人は、結婚とは無関係の制度で公的福祉を受けられる。
そろそろ「共同作業」と「仕事」も切り離してはどうか。
僕は協調性がなく集団に馴染もうとしないので「そんなんじゃ社会に出て失敗する」と、理解のない親や不勉強な教師から何度も何度も言われてきた。でも脳の特性だけに教育で矯正されず、そのまま大人になり彼らの予言通り失敗した。
ところがシンガポールに移住して個人主義で働ける会社に転職してからは、むしろ成績優秀な部類。そして今やインターネットがあれば完全に個人で利益を生み出すことも可能だし、在宅フリーランスとして企業と関わる人もいる。
情報化社会では「共同作業」と「利益を生み出すこと」はまったく別の能力。協調性がなく集団に馴染めないからといって、無能な困ったヤツとして扱うのは時代錯誤。
「みんなと仲良く同じことが出来よるようにお手伝いします」っていう「支援」は、発達障害当事者から創造性と主体性を奪う、残酷な人格矯正に他ならない。