日本人の生き辛さは昭和の洗脳コンテンツによって学校で作られている

童謡や絵本ってヤツは、多かれ少なかれ無垢な幼児を洗脳する道具だ。もちろん、社会に適合するために多少の洗脳は必要。

人はそれを「教育」と呼ぶ。

だけど、グローバル化と情報化によって、社会の変化がかつて無きほどに加速している。従って、教師や親の世代が良かれと思う社会常識と、実際に子供が大人になったときに必要な価値観が、急速に乖離している。

これが問題。

いまだに昭和の価値観で産み出された童謡や絵本を使って、公教育と呼ばれる「社会的洗脳」をやってるのが、日本社会に弊害を生んでいる。

今日は日本人が抱える生き辛さが、公教育による洗脳のせいだという話を書く。



無垢な小学生を苦しめる友達100人

1年生になったら友達100人できるかな。

例えば幼稚園の頃に歌ったことがあるこの曲。日本人は「友達」と「知り合い」の区別がついていない。この破滅的な倒錯が原因で、日本の小学生は「クラスに溶け込めていた」のに卒業したら「友達がいない」という苦しみを抱えることになる。

仲が良い子はたくさんいるのに、本当に困ったときに胸の内を誰にも打ち明けることが出来ない。子供のみならず、そんな悩みを大人になるまで引きずっている人は多い。

それはクラスや職場の「みんな」が、ただの知り合いでしかないから。

本来の意味の友達になるには、自分の個性を出していくことが大切だ。「僕が僕であるため」の努力こそが「君が君であってほしい」という承認を生む。

ところが友達を100人も、つまり「知り合い」をとにかく大勢確保しようとするなら、アプローチが真逆になる。

誰にも当たり障りのない没個性的存在にならない限り、100人もの「他人」と上手くやっていくことは出来ないからだ。

教師や親の世代は、大量生産大量消費の時代を生きてきた。当時大切だったのは、自分自身が凡庸な歯車の1つとして、既存の社会に摩擦なくハマることだった。個性は歯車であり続けるための弊害でしかない。

ところが今や、そんな没個性的な人材が人工知能に急速に取って代わられている。

21世紀は知り合いが100人いても何の価値も生まない。「僕が僕であるため」の努力を怠らず「君が君であってほしい」と承認される。

そんな個性的な人が生き残っていく時代だ。



多感な中学生を洗脳する走れメロス

太宰治の「走れメロス」も時代遅れな洗脳コンテンツ。

昨今、友情に自己犠牲は必要ない。

王様に友達を人質にとらせ、何か要求するなど犯罪だ。そんな状況を目にしたら、スマホで録音と証拠写真を抑え、弁護士を通じて警察に通報するのが正解。

イジメがその典型例。イジメとは傷害罪と名誉毀損なんだから、少年法に従って施設送りにすれば良い。自ら戦う必要なんてない。

パワハラや痴漢やブラック企業も同じ。全て法律違反なんだから自分で戦わず、スマホで証拠を抑え、弁護士を通じて被害届を出せば良いんだ。

それなのに、まだ自己責任・自己犠牲こそが美徳とされる。

社会の仕組みを利用せず、自己責任で全て解決しろという洗脳の所以。

例えば長生きリスク。身体の寿命より脳細胞の寿命が先に来てしまう昨今、介護は国家資格を持つ専門家が行うプロの仕事になった。もはや素人が手を出して上手くできる技術じゃない。

だから、福祉制度を活用していかに腕の良いプロにお願いするかが重要なのに、自分の手で親を介護しないと「姥捨」だの「人でなし」などと後ろ指刺され、さらに正当な福祉制度に頼る事すらも「非国民」扱いしてくる節がある。

高齢化社会を迎え、介護疲れによる一家心中や家族間の殺し合いが止まらない。

自己犠牲・自己責任を美化する洗脳コンテンツが、教科書から一掃される事を望む。

日本人の生き辛さは学校で作られている

歴史史料としてこれらの作品を紹介するのは有益だと思う。こんな大変な時代がありましたよってね。

ただ、それを今でも通用する正しい生き方として教えることは、時代錯誤というほかない。日本人の生き辛さは、こうした前時代的な価値観を幼少期に刷り込まれるのが原因と確信している。

生き辛さは学校で作られている!

それにしても、発達障害で学校で上手くいかなかったから、僕に洗脳が効かなかったのは皮肉という他ない。