今から15年以上前の、冷え冷えした冬の朝。東京郊外の住宅地。
その朝、僕はどうしても学校に行きたくなくて、校門前で回れ右して適当な方向に自転車を向けた。白い息をなびかせペダルを踏む。遅刻ギリギリを狙う同級生たちとすれ違う。まるでマリオカートで逆走している気分だ。みんな僕に一瞥をくれるものの、わざわざ声をかけてくるヤツはいない。
と思ったら、いた。
ひとりのミニスカ茶髪メガネ女子が、自転車のカゴにいれたスーパーの袋を指差して「実習!」と叫んで過ぎ去った。
あぁ。
そういえば今日は午後の家庭科が調理実習だった気がする。そして僕はハムかなんかを買って行く役割だったような。知るかよ。昼飯後の調理実習とかどういう神経してるんだ。
ヒンドゥー教やギリシア神話みたいな多神教の世界観には、災いの神とか争いの神みたいな、厄介なのが混じってるもんだ。デジモンやポケモンにだって、弱いくせに扱いにくいヘンキャラがいるだろう。
僕はそういうポケモンなんだよ。
学校の評価が家庭の評価になる
朝に時間を潰すとなれば、隣町のパチンコ屋くらいなものだ。
ここは前夜の閉店間際のお残し確変を、リセットせずに翌朝までそのままにしている。この時間から並べば、たぶんその台を取れるだろう。そうすれば確実に1回はアタリを引ける。それだって高校生にとっては大金だ。老け顔で良かった。高校生がパチンコ屋に入るのも違法だし、パチンコ屋が確変を翌日に持ち越すのも違法だ。おあいこさ。
その後は更に隣街の、小さな動物園に行った。
ここには有名なゾウさんがいる。戦後まもなくタイから日本にやってきた彼女は、この時すでにかなりの高齢で、狭い檻の中でいつも同じ動作を繰り返していた。僕はこのゾウさんが好きで、心がモジャモジャした時は彼女に会いに行き、しばらく話を聴いてもらっていた。
「ハナちゃん、僕には檻が無いっぽく見えるじゃん。でもこの辺の街が全部、実は檻なんだよね。逃げ場がないんだよね」
返事はない。
「ハナちゃん、例えばさ、学校で怒られるじゃん。ってと家でも怒られるわけ。みんなグルでさ。もうここくらいしか居場所がないんだよね」
返事はない。
「ハナちゃん、僕は居場所が無いんだよね…」
やっぱ返事は無いんだけど、なんか鼻の角度が5ミリくらい上がった気がする。あぁ、ハナちゃん。いつも話を聴いてくれてありがとう。
どうせ学校に親が呼ばれるなら、それまで出来るだけサボっといた方がお得というもの。とは言え、あの茶髪メガネ女子がハム無しのショボい料理で成績下がるのは可愛そうだし、ゾウさんも見たし、もうこの街でやることが無い。
僕はスーパーでハムを買って、午後から学校に行くことにした。実は僕が買って行くべきは鮭の切り身だったことは内緒だ。
別の価値観で評価される複数の場所
こんな体験を踏まえて、今の僕の人生は価値観を、複数の組織、複数の人間関係に分散させるように工夫してある。
ブログを毎日読んでくれる人、テニスの相手として必要としてくれる人、Wordpressのセットアップや収益化に関するWeb系の知識で必要としてくれる人、プログラミングスキルを評価してくれる企業…。
僕はそんな掛け替えのない人たちに支えられて、図太く21世紀を生きている。今の僕には色々と居場所があるんだ。
天国のハナちゃん、ありがとうな。
僕を支えてくれる周りの人たちがなぜ掛け替えがないかと言えば、僕に一点賭けを強要することなく、それそれ僕の一部分のみを評価し支えてくれているからだ。彼らはそれが僕の一部でしかないことを知っている。そしてその一点で僕が僕である限り、そのまま必要としてくれる人たちだから掛け替えがないんだ。
ブログを楽しみにしてくれている人は、僕のテニスが下手になっても困らない。プログラミングの仕事を振って来る会社は、僕がブログを更新しなくなっても気付きもしないだろう。
ひとつの能力や、ひとつの価値観、ひとりの女性、ひとつの企業からの承認に人生を一点賭けするような「後がない人生」に僕は向いていない。
ひとりの女性、ひとつの企業に全ての人生を賭けるような行動は、確かに時にドラマを生み、ロマンチックだ。でもそう器用に生きられなくても、そんな「濃い存在」が無くても、人生を分散投資すれば楽しく生きられる。その事実をこれからも身を持って表現して生きたい。
こんなクソみたいな苦しみは僕だけで充分だ。