発達障害だと自認する遥か前、小学校に入る前の幼児の頃から、人付き合いが苦手だった。
団地で育ったのに近所の子たちに混ざれず、また、混ざる必要性も理解できなかった。独りで黙々とLEGOや泥団子を作る方が、何を言ってるのか理解できないニンゲンの幼体と行動を共にするより、よっぽど喜びがある。
それがカクテルパーティ効果が効かない発達障害の特徴だと僕が気付くのは、優に20年後になる。。。
「お友達をつくらないとダメだ」
そんな僕を心配して周りの大人たちは熱心に僕に忠告した。今思い返すと、これが初めての「〜しないとダメだ」攻撃だったように思う。
友達とは何なのか知らない哀れな大人たち
それから10年以上経って、僕にも初めて仲良くしようとしなくても、自然と仲良くなった人ができた。
それで僕は気付いた。
それまでの僕の人生には友達としてふさわしい人が周りにいなかっただけで、そういう人がいれば僕にも自然と友達ができるんだと。
周りの大人たちが全員間違っていた。
そうやって種々雑多な、クラス分けで偶然一緒の箱に詰め込まれた程度の人物と、それなりに上手くやれるように人格を最適化した人が、卒業とともに親しい人を一撃で無くすのを幾度となく見てきた。その人と本当に気が合うから一緒にいたのではなく、クラスと言う独房で生き残るために一緒にいたに過ぎないのだから。
友達なんていうものは、無理して作るものでは絶対にない。
そんなロクでもない価値観を僕に押し付けてきた大人たちは、定年退職で箱から追い出された瞬間に孤立して、孤独な最期を迎えるに違いない。
結局「〜しないとダメだ」と言う忠告は「俺の気にいる行動をしろ」という命令だ。でも命令する権限がその人物にないものだから、あたかも僕の為を思って言っているかのように偽装しているに過ぎない。
その実、それは脅しである。
昇進したくないなんて社会人としてダメだ
その後もこういう寂しい大人に囲まれて、僕は生きてきた。
例えば新卒で就職した会社の上司。
僕はお金で達成したいことがほとんどない。今もし宝くじが当たっても、銀行口座の桁が増えるだけだろう。僕の幸せとは興味がある本を読み漁って、それについて自分なりの考えを文章にすることだ。その脇にビールがあって、疲れたら昼寝する場所があればそれで充分幸せ。
僕の幸せはお金がかからない。だから頑張ってお金を稼ごうと言うモチベーションが全くない。
そんな本音を、とある飲み会で酔っ払った拍子に上司に口走ってしまった。それで言われたのがこれだ。
「昇進したくないなんて社会人としてダメだ」
男は年収で判断される。このまま平社員で30歳、40歳になり、女性から見向きもされない老人になっていくのは惨めなものだ。もう10年近く前なのでよく覚えていないけれど、確かこんなようなお説教だった。
当時の僕にはこれでも彼女がいて、僕よりずっと稼いでる人だったこともあり、僕の微々たる年収など端から当てにしていなさそうだった。それよりも、黙って話を聞いてくれるような人間が彼女の傍に必要だから、僕のところにいるんだと思っていた。
そんなわけで上司のお説教は酔いとともに記憶の彼方に消え去ったわけだけれど、シンガポールの米系企業に転職して、やっぱりナンセンスだったと確信した。
今の僕は担当した仕事のデキだけで人事評価される職場にいて、ダルいから昇進なんかしたくないと豪語する同僚に囲まれている。それでもチャンスがある人は結婚して、公団住宅を購入している。ぐだぐだと働いても、ちゃんと働いている以上、生きるのに全く問題がないのだ。
当時の僕は「詳説 Linuxカーネル」という、殺人現場に踏み込んだ探偵がチラ見で凶器認定するであろう、厚さと重量感がある技術書にハマっていた。この本を読めばこの世のコンピューターがどうやって動いているのか、隅の隅まで理解できるという聖典である。
だから社会的成功に興味が湧かなかったんだけど、単純にLinux環境の理解を極めてもあの会社には技術者としてのキャリアパスが無かっただけで、僕の生き方は何一つ間違っていなかった。
俺の都合いいように振る舞え
その後も。
芸能情報は人間関係の潤滑油だから、芸能人に関心を持たないとダメだとか言うAKBオタク。同じような理由でスポーツ観戦を勧めてくる欧州サッカーサポなんかに出くわした。
アホか。
そんな潤滑油がないと関われないような人間にはそもそも関わる価値がないんだよ。
「~しないとダメだ」というのは助言に聞こえるけど、その実「俺の都合よく振る舞え」という権限なき命令だ。
そんなく下らない命令に従って、幸せになるはずがない。こんな寂しい存在からの助言的な戯言は、徹底的に無視するのが正解だ。