苦労してでも成功したい人、苦労しないのが成功という人

仕事。

起きている時間の殆どを「仕事」に捧げるのが現代のライフスタイル。誠に遺憾だ。だから自分にあった仕事に就けるかどうかは、人生の幸福度を左右する最大のパラメータだ。

じゃあ自分にあった仕事って何よ!?って話になる。

ところが職選びは人生で最も重要な決断にも関わらず、この世にどんな職業があってそれぞれどういう人が向いているのかを誰も教えてくれない。学校で国語算数理科社会を勉強する際は、その知識をどうやっておカネに変えるのかもセットで教えてほしかった。

少なくとも大学では。

たとえ積極的に業界研究やOB訪問を繰り返したとしても、現状興味を持った業界が実際にどんな仕事なのかは「働いてみるまで判らない」。

ましてそれが自分に合った仕事かどうかなんて、就活する段階では雲をつかむような話だ。まぁ適職診断とかいうヤツは僕が新卒だった頃からあるけどね、あれは所詮星占いの域を出ない。

したがって就職活動とは超ハイリスクの博打だ。

しかも浅草寺のおみくじが如く「凶」が高確率で含まれている理不尽なやつ。

苦労がない日常が僕の成功

世の中には2種類の人間がいる。

苦労してでも成功したい「ガツガツ人間」と、苦労しないのが成功という「グダグダ人間」だ。

僕は断然、苦労したくない。1日中グダグダと怠惰に暮らしたい。猫のように(=^・・^=)ニャーン

その代りおカネは死なない程度にあれば充分だし、家族もマイホームもクルマも要らない。あったらあったで楽しそうだけど、そういうのをキッチリ維持するのがダルいし、多分上手に出来ない。

僕は10年近く前にウツになってから「怠惰に暮らしたい」と公言している。去年始めたこのブログも僕のマッタリズムを布教するのが目的のひとつだ。

週5で働くのがツラい。夜寝られない朝起きられない。独りで静かに暮らしたい。

最初はもっと批判されるかと思ったんだけど、意外にも肯定的なコメントや共感をいただけている。嬉しいことに、この世には僕の予想より多くのグダグダ人間がいるようだ。

僕らグダグダ人間にとって、苦労しない暮らしこそが人生の「成功」。逆に豪華絢爛な酒池肉林は、社会的ステータスや財産を得るのに苦労をいとわないガツガツ人間が目指す「別の未来」だ。そんなもんはカネと名声に目がくらんだ連中で適当に楽しんでくれればいい。

すなわち我らとはなんの関係もないゴールがこの世で「成功」と見做されているがために、グダグダ人間は生き辛さを抱えることになる。

さらに我らの価値観であるマッタリズムはこの世でまったく市民権を得ていない。

人間社会はまったり生きたい人もガツガツ人間に擬態しないと生きられない仕組みになっていて、これが上手に出来ないと多数派である奴らから社会の落伍者と見做され、迫害される。

例えば育てるのダルいから子供はクソなどと言うと、寛容な東南アジアでさえ奇異の目で見られるフシがある。

嘆かわしい(=^・・^#=)

僕に適職はない

日本とシンガポールでそれぞれ5年ずつ働いた感想として、グダグダ人間の僕に「適職」は存在しないようだ。

特にカネを払っただけで何かを要求してくる「お客さん」っていう存在が決定的にダメ。

「じゃあカネ要らないから帰れよ」って思っちゃう。おカネに執着心が薄いと、おカネを稼ぐために頑張ろうという意思も薄弱になる。だからちょっと不快になっただけで労働意欲が枯渇する。

長らくIT業界でやってきたけど、自分が使うわけでもない自社製品の品質とかマジでどうでもいい。人の命に関わるような製品じゃないんだし、多少バグがあっても我慢して使ってくれたまえよ。

客なんてそんくらいなもんだ。

ところが現実はそう甘くない。

一定の人がカネを払ってでも手に入れたいと欲する「価値」を生み出し続けないと、この世で質素に暮らしていくことすら許されない。この世に生を受ける選択をした覚えはないのに、なんという理不尽だろう。

そもそもお釈迦様が「生きることは苦しみ」などと説いてから2500年も経ってるのに根本的に何も改善してないのが許せない。どうしてその間に頭の良い人たちがパパッとやんごとなき世界をこしらえてくれなかったのか。

これは人類進化の怠慢だろう。

怠慢な人類にはもううんざりだ。僕は猫になる(=^・・^=)ニャーン