夏休みの宿題ってヤツが大嫌いだった。まぁ大好きって人もいないだろうけど…。
僕が忌まわしき夏休みの宿題を嫌悪する理由は2つある。
まず、一言日記とかアサガオの観察記録とか、毎日の習慣付けが必要な点。これが絶望的に苦手だ。
そもそもアサガオに水をやる習慣すら無いのに、ましてその記録たるや。
結局、8月末に変わり果てた姿になった被子植物にガッカリすることになる。たぶん哀れなアサガオもさぞかし僕にガッカリしたことだろう。そして朽ちた茶色い残骸を見ながら想像力を振り絞り、画用紙に緑とピンクを塗りたくるんだ。
アサガオの観察日記は憎しみと不幸を生むので教育に良くない。そのうち僕が出世して文部大臣になったら観察対象を石ころにしてやるぜ(=^・・^#=)
あと夏休みの宿題は学習として無意味なのも気に食わない。
1学期に習った漢字を30回ずつ書き取りとか、計算ドリルを全部やり直しとか、宿題を出す先生側もダレている。そもそも自由研究なんて完全に教師の手抜きじゃんね。
この宿題を終えれば必ず開成中学に合格しますみたいな、気合いが入ったカリキュラムなら僕だってやる気になるのに。
ほんとだよ(=^・・^=)
そもそも毎日コツコツやらなくても、ぶっちゃけ死ぬ気で3日も取り組めばハリボテをでっち上げる事が出来る。この緊張感の無さが8月31日の地獄を生むんだ。
そんなわけで一度「やっても意味ない」と感じちゃうと、僕は一切手を付けなくなる。だって意味ないんだもん。
まぁ小学校ならこんな幼稚なメンタリティでも卒業させてくれた。でもそのまま成長せずに歳だけとると、徐々に社会生活に問題が出てくる。
ギリギリセーフの高揚感
ケジュール管理が出来ない。意味ないと思うタスクになかなか取り掛かれない。
そんな僕の仕事に対するスタンスは「ギリギリセーフ狙い」だ。
締め切りギリギリになるまで仕事をしているフリに徹して、後が無くなるまで追い詰められたら尻から火を吹いて猛ダッシュ。そしてギリギリセーフで締め切りに滑り込む。
それに成果物のクオリティーもギリギリセーフ狙い。とりあえず褒められもせず怒られもしない程度のものが作れれば万々歳。
大学の時など落第しないギリギリである60点ピッタリの答案を書くことに快感を覚えていた程。留年せずに卒業することだけが目的だったから、勢い誤って70点も取ってしまった日には「10点も無駄に勉強した」などと後悔さえしたものだ。
見た目は大人、頭脳は子供。
34歳になった僕は、夏休みの宿題が苦手だった小学生の時から本質的になにも成長していない。
ところが締切りに追われて必死に作業するのって、クセになる高揚感を味わえる。
脳内でアドレナリンが勢いよく噴き出るのを感じるほど強い興奮と、期限内にそれなりな成果を出せた達成感。これは強烈な快楽でもあり、自分は「やればデキるヤツだ」などと長いこと思い込んでいた。
過集中に頼りすぎてウツになるまでは。
ギリギリアウト
義務教育を終えた頃から、こんな付け焼き刃のブーストではギリギリセーフに滑り込めないことが増えた。
勉強が難しくなるし、まして仕事ともなれば要求ハードルが学校とは比較できないほど高くなる。社会から期待されている要求水準は、ガキのままの僕が想像しているよりずっと高かった。
その認識のギャップにより、歳をとるにつれて「こんなもんで良いだろう」と投げやりで作った成果物ではとても戦えないフェーズに入ってしまった。
滑り込みアウト。
締め切りを守れず成果物のクオリティーでも要求水準を満たすことができない。あちこちに迷惑をかけ、批判されてばかり。
苦悶の末調べてみると、尻に火がつかないと作業に取りかかれないのは発達障害ADHDの特性らしい。そしてブーストをかけてタスクを乗り切るのは「過集中」というこの手の人間に実にありきたりな習性だった。
期限や期待値を満たせない劣等感と叱責、過集中によるエネルギーの消耗。僕は次第に社会生活に苦痛を感じるようになっていった。
そして社会人2年目にしてうつ病になり、3年の闘病を経て日本社会から脱落した。
毎日完結型の仕事が良い
それでもサラリーマン生活に自分を適用させていかないと、この世でご飯を食べられない。だからシンガポールでもう一度就職活動をする際は、僕なりに工夫して社会とつながっていくことにした。
具体的には毎日小さな締め切りが来る仕事を選んで応募した。
毎月月末に大きな波が来るような仕事だと、その時までタスクを先延ばしにして、なおかつそれを達成できず失敗するだろう。
でも毎日小さなハードルを飛び越えさえすれば成り立つような仕事であれば、先延ばしにするといっても数時間程度のものだ。
これならばほんの少しの過集中で乗り越えることができる。消耗するエネルギーも少なければ、毎日のことなので会社から受ける期待値もさほど高くないハズ。そんな仕事ならば僕のような精神年齢の低い「Mr.Children」でもこなせるんじゃないか。
この目論見は見事に大正解だった。
日本では僅か1年足らずで病み始めたにもかかわらず、シンガポールの現職はもう4年近く仕事が続いている。やっぱり自分に合う環境を見つけることが、持続可能性Sustainabilityにとって大切だと確信している。
僕は「反省」という言葉が嫌いだ。
迷惑をかけた人にいくら無意味な「ごめんなさい」をしたところで、僕は夏休みの宿題をこなせない小学生のままなことに変わりない。きっと程なくして同じ失敗を繰り返す。
だからこそ「改善」を意識する。
具体的な工夫を施して、このままの僕でも社会の要求を満たせるようにするにはどうしたらいいのか。その答えを見つけた時、僕は無駄な罪悪感や嫌悪感を抱くことなく自信を持って社会とつながることができた。