牛丼について語るとき僕が語ること

ネオンが煌めく夜の新宿。

郊外住みはそろそろ終電を意識する頃合いなのに、ふと暴力的に明るい牛丼チェーンが視界に入る。その瞬間、本能に導かれるように思考停止してフラフラと足が向いてしまう様は、さながら蛍光灯に群がる夏の虫。

深夜の街を歩いていると無性に牛丼が食べたくなるのは何故なのか。この謎を解明すればイグノーベル賞くらいは取れる気がする。

この世には良い牛丼屋と悪い牛丼屋がある。

気を付けなければならない。

幸い、今宵僕が誘引された店は食券制。良い牛丼屋だ。うっかり悪い牛丼屋に迷い込もうものなら、店員さんとの会話が発生して深夜の混濁した意識をさらにかき乱されることになる。

システムとしての栄養補給。

整然と動作する深夜の社会インフラを、真心こもった接客などという情で汚染してはいけない。店員さんもお客も、カタカタ規則正しく動く夜の街を構成する歯車なのだ。

それが僕が牛丼屋に求める全てであり、それが牛丼屋が僕に提供すべき全てだ。

食文化の荒廃

牛肉。旨味と牛脂を惜しみなく放出してもなお存在感を放ち続ける。そして牛肉の味をもれなく吸収し尽くした飴色の玉ねぎ。

でも具から食べるヤツはまだまだ至っていない。甘辛いツユが染みたご飯を丼のそこから掘り返し、厳かにほうばる。

これだ。

なんという退廃的な味だろう。

SFやアニメなんかで未来の食事はカラフルな錠剤として描かれることが多い。その姿は現代でもCompみたいなケミカルな粉末として実現しつつある。

でも僕は牛丼こそが栄養補給としての究極のカタチだと信じている。

子供から年寄りまで誰にでも好まれるハッキリした味付け。とりあえず牛肉というチープなお得感。日本人の心の拠り所、米。そこに様々なトッピングを加えれば味のバリエーションは自由自在。

毎日食べても飽きがこない牛丼。牛丼にビタミンと食物繊維を足せば、完全栄養食として名乗りをあげるに相応しい。

これを食文化の荒廃と言わずしてなんと言おう。

牛丼堕ち

働いたら負けだ。されど働かずして勝てない。

働きたくない。されど働かずして食えない。

そこで牛丼である。

牛丼であれば時給1000円で3杯も食べられる。なんと1日1時間労働で朝昼晩3食食えてしまうのだ。もう牛丼でいいではないか。牛丼が人々を苦役から解放し、1日23時間を自由に使える桃源郷へと導く。21世紀の自由の女神は丼に乗ってやってきた。

ところがこれは底辺の思考。

よく途上国の貧困を表す時、1日2ドル以下の生活を強いられているなどと表現する。これを日本に当てはめるなら牛丼以下の生活を強いられているのがそれだ。

モヤシを胡麻油で炒めて生卵を落とし、大盛りご飯にぶっかけて醤油味で食べる。原価80円。商店街の弁当屋でおばちゃんと仲良くなり、パンの耳をタダで手に入れる。これを溶き卵に浸し、ファミレスからパクってきたスティックシュガーを振りかけてトースターで焼く。原価10円。

しかもこれが美味いんだよ(=^・・^;=)

牛丼レベルに労働を疎かにした時、あっという間に牛丼も食えない生活へと堕ちていく。

牛丼堕ち。

ここで意識すべきは食事と栄養補給は違うということだ。

別に毎日2000円のランチを食えと言っているのではない。

今日は何を食べようかとワクワクしながら街を散策する時間。たまの寿司や焼肉を楽しみにする気持ち。酔っ払った昔馴染みとすする豚骨ラーメン。密かに意識している女性とカフェでコスパの悪い洒落たメシを食べるのもいい。

食事からそんなささやかな文化的社会的な役割を切り捨てた時、徐々に活力を奪われ八方塞がりになる。

深夜の牛丼屋に吸い寄せられた時、僕はあの日を思い出して明日も頑張って生きようと思いを新たにする。