去年帰国した時は、日本のテレビや新聞は有毒の蟻「ヒアリ」についてパラノイア的に報じていた。それなのに今回の帰国ではヒアリのヒの字も無く、アメフトの危険なタックルについて日大関係者を火炙りにするばかり。
物流が止まっていない上、今でもヒアリはコンテナにくっついてどんどん日本に入ってきているハズだけどね…。
どう考えてもおかしいと思う。
今ある危険について周知を促すのではなく、マスコミ自身が儲かるよう、視聴率ばかり追求しているように感じた。しかもそのやり方はイジメそのもの。客観的事実を淡々と報道するのではなく、専門家でもない芸能人が感情的な発言でマスコミが勝手に定義した「関係者」を追い詰める。それが事実であるのかすら定かでないうちに。
特に。
まだ判決も出ていないのに被害者と加害者の家族に張り付いて個人情報拡散するのはネットの炎上よりよっぽどタチが悪い。一言でいうなら極悪非道である。
もはやテレビや新聞は報道機関ではなく、ただの煽動機関に堕ちた。
「直ちに健康に影響はありません。ぽぽぽぽーん」
僕はあれ以来もう二度と日本のマスメディアが垂れ流す情報を参考にしないけど、いったいどうしてこんなことになってしまったのか。
同じ内容の繰り返し
日本のマスメディアに特徴的なのは、同じ内容の繰り返しである。
コマーシャルに入る前と後で、ひどい場合は5分くらい内容が全く同じ。箇条書きにまとめれば30秒で収まる内容について何度も何度も繰り返し、無理やり30分に引き延ばす。
情報の密度があまりにも低すぎて思わずスマホを手に取ってしまう。これはドラマやバラエティー番組でも同じ。とにかく展開が遅く、時間あたりに得られる情報がインターネットの半分以下なのだ。
でも高齢の親と一緒にテレビを見ていたら、老人にとってはこの手のコンテンツが心地良いのだと気づいた。
老人って同じ話を何度もする。
僕からしたら同じ内容を何度も聞かされるのは苦痛でしかないけど、老人からしたら既に知っている内容を聞いて「そうだ!そうだ!」って言うのが楽しいのだと感じた。
逆に自分が知らない、論理建てて理解する必要がある内容を矢継ぎ早に話されると、老人は不機嫌になる。ついていけないのだ。だから自分が馬鹿にされたように捉えてしまう。
マスメディアは主要なお客様である老人の感性に寄り添った結果、当然の帰結として緩慢な老人にしか相手にされない情報媒体になってしまった。
専門外の著名人が邪魔
ラグビー部の悪質タックルについて、大昔の著書が有名だけど最近何の研究をしているのか定かでは無い、三流生物学者がコメントを垂れていた。
スポーツのトラブルについて呼ばれるのが生物学者である。
ため息しか出ない。普通に考えて異常だ。
でも老人という生き物は専門知識を得たいのではない。彼らにとって著名なご意見番がどう思っているのかが大切。そんで「あの人がこう言ってたわ!」みたいな話題のタネにしたいんだね。
がんばって理解した専門知識を井戸端会議でひけらかしても場を白けさせるだけ。それなら誰でも知ってる有名人を引き合いに出して、当たり障りない話に持ち込むのが正解だ。
でも事実、テレビや新聞から得られる情報は全然参考にならない。そもそも新聞社によって過剰なバイアス(味付け)がかかり、何が起こったのか客観的な事実を掴むのにすら苦労するレベル。
もはやテレビや新聞は老人以外にとって耐え難い情報メディアになってしまった。
マスメディアの強み
今や広告の主戦場はインターネット。
でもテレビでも面白いコンセプトの番組をやっている。そしてテレビほど予算をかけたコンテンツもそうそうない。
例えば芸能人が俳句を詠んで専門家が添削する番組を父親が見ていたんだけど、あんなのはテレビでしかできないことだ。
もともと興味ある人しかアクセスしてこないのがインターネット。だから俳句をテーマにしたサイトならば、俳句に詳しいオタクしか集まらないハードコアな場所になってしまう。
一方でテレビならばその時間に偶然スイッチを入れた人が強制的に見ることになる。これまで俳句なんか興味がなかったけど、偶然見たテレビ番組がキッカケでその面白さに目覚める視聴者が現れても何の不思議もない。
これこそがオンデマンドでない情報メディア、テレビや新聞の強みだ。
だから老人に合わせた緩慢な展開、ずぶの素人に専門家の役割を与えること。それになんといっても事実がわからないうちに、それがまるで真実であるかのように捻じ曲げること。
こういうところ改めたならば、マスメディアにもまだまだ情報媒体としてポテンシャルがある。
だから僕がたまに帰国して日本のマスメディアについて感じたのは「モッタイナイ」という感情だった。