団結は疎外を生むので共生くらいユルいのがいい

小学校3年生くらいのときにクラスで大縄が流行った。全員が8の字に並んでグルグルグルグル。長い縄跳びを2人でぶん回してみんな順番に飛んでいく、アレ。

あれってなにが面白いの(=^・・^;=)?

あんなもん何回続いたところで僕にとってなんの利益もない。むしろ失敗して嘲笑されるリスクの方が甚大だ。これって農村の荒れてる学校では冗談抜きにヤバくて、ほんのちょっとしたキッカケで暴力の的になってしまう。

それにも関わらず身体能力の発達が遅い子が問答無用に不利になる集団競技を、何故わざわざ学校が推奨しているのか。アホなのか。

目的は縄跳びが上手になることなのに、日本の学校はみんなで一緒に練習するという「過程」に重きを置く。まさに本末顛倒。そうして刷り込まれたメンタリティが、大人になっても全員強制参加の飲み会とか、みんな帰るまで帰れないみたいな無駄な残業地獄の温床になっている。

そういう「みんな一緒」をゴリ押しする全体主義者が口を揃えて主張するのが「団結」の重要性。みんなで協力して成果を出す一体感こそが大切なのだと。しかも団結した結果個人プレーより能率が下がったとしても、みんなで一緒に成し遂げることに意味があるらしい。

もうこうなると宗教だね。絆教。

じゃあそもそも、容易にみんなと「団結」できない人はどうなるのか。

例えば小学校の縄跳びの場合、僕のクラスには車椅子登校をしている男子生徒がいた。確か筋肉が衰えていくホーキング博士と同じ病気だったと記憶している。それにも関わらず無能な教師が「昼休みはみんなで大縄をしましょう」などと焚き付けた結果、その残酷な「みんな」に含まれない彼はヘルパーさんと2人で休み時間を過ごしていたんだ。

「団結」は必ず「疎外」を生む。

もし無能な教師主導の強制大縄がなければ、僕みたいなインドア派の子供は教室に残って自由帳に迷路でも描いていただろう。当時は自由帳にパラノイア的に細かい迷路をこしらえるのが流行っていたんだ。別にそれで車椅子の彼と遊んだかはわからないけど、少なくとも彼が教室で独り孤立することはなかったハズだ。

団結はもう必要ない

みんなに同程度の能力があって、みんなが同程度の熱意を持っていないと団結という行為は成り立たない。団結するという行為は、根本的にメンバーの均質性に依存している。

ところがこの均質で残酷な「みんな」を定義することは、近年とても難しい。

今や小学校のクラスに少なくとも2人はいると言われる発達障害の特性を持つ子。これは発達障害が増えているのではなく、そうした特性を積極的に捕捉して適切な対処をしていく方針がとられているからだ。昔からいた授業中に立ち歩くような子供を、ただの問題児として排除するのではなく適切な配慮をしていきましょうという話。

他にもLGBTみたいに性愛の特性が大衆と違う人たちも積極的に受け入れていく方向で世界が動いている。

さらに今の日本社会は外国人労働者抜きには成り立たない。異国で育った彼らが日本人の「常識」に従う義理はないし、そもそも宗教や民族の風習を社会的圧力で変えさせるのは不可能だろう。

そんな「普通」が定義出来ない時代に、構成員の均質性を前提にしている「団結」は成立しない。だから団結でしか他人と協力するチャンネルを持たない人は今後どんどんヤバい立場に追いやられるだろう。例えば何かっていうと強制参加の飲み会を企画する管理職みたいなのは、多様性のある社会ではともまともな職業には就けない。

でもそもそも21世紀にチカラを合わせないと成し遂げられないことなんてほとんど無い。

仕事のほとんどは個人プレーの寄せ集め。世界的にビジネスは固定のオフィスを持たず、その道のプロであるフリーランスにネットで仕事を細切れにアウトソースする方向で進んでいる。

そういう意味で仕事はこなせるのに職場の人間関係がツラいみたいなのは、違いを積極的に受け入れていく世の中の流れと旧態然の集団との摩擦と言える。

違いを受け入れユルく共生

みんなで力合わせて猛進する必要がなくなってきてる以上、団結の必要性も減っている。そこで求められるのは均質性に依存した「団結」ではなく、参加者がそれぞれが持つ個性を受け入れる「共生」だ。

例えば他民族国家シンガポールでは全員参加のイベントを開催するのは大変だ。宗教上食べられないものがある人が多いし、そもそも立場上ランダムに集められた人たちで仲良く遊ぶようなモチベーションがない。

多文化共生国家シンガポールで全員参加イベントは大変
日本の会社は何かにつけて宴席を設けるのが好きだ。新年会、忘年会、歓送迎会、決起会、などなど迷惑極まりない。やりたい奴だけ勝手にやってくれ。僕は会社のイベントが心底嫌いで、理由をつけてはサボっていた。殺...

だから無駄に全員参加の行事は行われないし、その場合はただ集まって好き勝手にカラオケを歌ったり、しゃべくったり、スマホでゲームに興じたりするグダグダな感じになる。

それでも彼らの収入は日本人の平均を遥かに凌駕する。大切なのは集団の総合力ではなく、もはや各個人の持つポテンシャルに集約されている。

メンバーの均質性を前提にしている「団結」から、メンバーの違いを前提にした「共生」への転換。すなわち全体の総合力を追求するのではなく、それぞれが個人の力を伸ばしていく。

これが21世紀の成長のカタチである。

国際社会で日本が今後も地位を保っていくためには、全体主義から個人主義へ速やかに転換するのが処方箋だと確信している。