労働者が企業を使い捨てにする時代

僕がもう4年以上住んでいるシンガポール・インド人街のシェアハウスには、僕が住み着いたころから同居人の中華系マレーシア人男子くんがいる。

彼は僕より3歳年下の弟分って感じなんだけど、これがステレオタイプの几帳面。食器の洗い方、洗濯物の畳み方、廊下のゴミの拾い方などなど、ちょっと病的にパラノイア。その洗ってない食器と洗濯物を公共スペースに放置して廊下にゴミを投げたのは何を隠そう僕なだけに、まいど心苦しいったらありゃしない。きっと血液型はAAA+のA型に違いないと思っていたんだけど、実はB型らしい。やっぱ血液型占いはゴミクソ迷信だな。

そんなことはどうでもいいとして。

彼はこの不動産に取り憑いた座敷わらしみたいなもん。ガチで常に家にいる。いや、もちろん彼だって仕事があって、一般的なサラリーマンが家にいれられる時間しか僕が家にいないから生活パターンが彼と被っているだけなんだけどね。

うん、そう思ってた。

でもさすがに僕が無職になってそれこそ平日の昼間に1日中家にいても、彼もちゃんと家にいる。

ヤバい(=^・・^;=)

座敷わらしは貧しさの影で間引きされた子供の霊らしい。供養のために御宮とか建てた方がいいかしらと思ってたら、実は彼も先週で仕事を辞めたという。それで週末はひとしきり「勤労はクソ」って話題で盛り上がった。彼が酒飲める人なら最高なんだけどな。

過労は甘え

まぁいいや。こういうの最近はアルハラになってしまうし(=^・・^;=)

シンガポールで働いている人はシンガポール人のみならず嫌だと思ったらすぐに仕事を辞める。それに過労自殺とか無意味な命の使い方を絶対にしない。だから彼にように真面目でキッチリした性格にも関わらず、職場で不本意なことが発生したら一撃で退職願砲をぶっ放してくる。

彼のような人からは勇気をもらえる。

だってそうだろう。

「真面目」と言えば日本では「我慢強い」とほとんど同義だ。それはクラストップの生徒に偏差値で及ばないゴミ教師や現場に出たら足手まといでしかないカス経営者にとって、使い捨てにできる都合がいい存在だからこそ「望ましい性格」とされているに過ぎない。でも中華系マレーシア人の彼は真面目だからこそ「理不尽だ」と感じたらその瞬間に職場を去る行動力がある。きっと次の仕事が良い条件で待っているのだろう。

それで今後どうするのか聞いたところ、しばらくのんびりしてから考えるとのこと。

あれ、マジ(=^・・^;=)

なんとも呑気なもんである。

彼は高校からシンガポールに住んでいるので永住権をもっていて就労ビザの心配がない。さらにアジアのトップ校であるシンガポール国立大学を卒業したエリートでもある。ぶっちゃけそこまでエリートでなくてもちょっと就活すれば内定が出るシンガポールにおいて、彼ほどの人材なら働きたくなったらすぐにでもオファーが来るのだろう。

つまり彼は今までの人生で努力すべきところでキッチリ成果を出してきた。専門性と実績。これは労働者最強の武器だ。だから会社の理不尽に対して退職願砲をぶっ放しても余裕でいられるし、この武器さえ几帳面にメンテナンスしていればそれを必要としている企業が絶対にある。

そんな彼にとって無能な経営者にしっぽを振る理由などなにもない。雇われたらキッチリ成果を出す。それに対して正当な対価が得られない場合は即座に去る。

それだけ。

僕は日本で無能な社畜労働をした結果、病んで自分を責めた。なんて無能だったのだろう。あの時、企業が都合よく使い捨てにできる「真面目な社員」に徹するべきではなかった。やるべきだったのは働いている産業のどこでも通用する専門性を身につけ、企業というステージを「利用して」実績を出すことだった。

そうすれば僕だって日本で社会人として上手に生き延びられたかもしれない。

自分の無能さを呪う。

こうなると、もはや「過労」や「社畜」は無能に対する制裁であり、罰として人生の貴重な時間を労働ごときに差し出し続けるのは甘えでしかない。労働者の武器である専門性を磨くことから逃げ、その結果の無能で成果を挙げられず、職場で理不尽な状況に直面したときは日頃鍛えたケツの筋肉でしっぽを振る。

まさに社畜とは無能の甘えだ。

専門性だけ高めてればいい

などと啖呵を切っておいて、日本で鬱を発症してから10年経った僕は清々しいまでの無職である。

でもその時間に労働を巡る世界の状況はガラっと変わった。

リーマンショックを出すまでもなく有名企業が破綻し、先進国の老舗が新興国の若い企業に買収される。さらに毎月のように新しいベンチャーが生まれは消えてゆき、時価総額世界トップの企業でさえ買い叩いた中小企業のさながらパッチワークみたいになっている。

労働者より企業の方が短命になった時代。

産業革命以降、この時代ほど企業に籍を置く意味が希薄になったことがあるだろうか。

もはや「就職」とは企業に採用されることではなく、専門性を持ちその「職」に「就く」こと。「仕事」とは企業に所属しているかどうかではなく、スキルを効率よく換金することだ。その道具として寿命の短いか弱い企業を「労働者が」使い捨てにするもよし、はじめから企業などに依存せず「自分ブランド」でやるもよし。

形勢は逆転した。

個人のポテンシャルだけが価値を持つ時代に労働者が努力するなら、それは企業にしっぽを振ることではなく換金可能なスキルをひたすら磨くことだ。

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