夜の9時半。
ここはシンガポールの都心から少し離れた24時間営業のカフェ。東京なら中野って感じかな。背の高いオフィスビルもあれど街並みはどこか所帯じみたものがあって、シンガポールがこんなにも発展するずっと前からベッドタウンとして機能してきた貫禄が滲む。
そんな郊外都市のカフェで今夜も僕はパソコンを開いた。するとTwitterにこんな投稿が流れてきた。
「あと1週間で7月が終わっちゃう」
そうか、まだ7月なのか。
6月末、5年も勤めたシンガポールの米系企業を退職した。所属していた部署が中国に丸ごとアウトソースされることになり、お払い箱になるカタチでの会社都合退職。今はその退職金と残り日数が少なくなってきた滞在ビザでシンガポールの無職生活を楽しんでいる。
あれからまだ3週間しか経っていないのか…。毎朝6時に起きて過敏性大腸炎の下痢と戦いながら電車に揺られていた日々は、もう3ヶ月前と言われても納得するほど遠い昔のように感じる。
退職してから明らかに時間の流れが遅くなった。まるで公転周期が地球と異なるパラレルワールドにすっ飛ばされたみたいだ。
あぁ、僕はまたこの世界に戻ってきたのか。
時間を売らない生活
6年前は東証一部の社員が何千人もいるような会社に務めていたんだけど、品川駅で倒れて僕は祖国日本から脱落した。それでSkype英会話の先生の誘いに乗ってフィリピンセブ島に飛んで僕の旅人生活が始まった。
それから働かずに過ごした1年間は本当にゆっくりと流れていった。
同じ24時間、同じ365日でも、どのように過ごすかによって時間の流れるスピードは全然異なる。毎週住む街が変わり、毎日新しい人に出会い、昨日とは違う言葉でビールを買う。日常のルーチンワークが崩壊した日々はあっという間に過ぎてしまうのだけど、ふと気づくと2週間しか経ってなかったりする。
あの時も見慣れない異国を転々としていたことも手伝って、時間の流れが遅く設定されている異世界に迷い込んだように感じたものだ。
充実しているほど時間があっという間に過ぎてしまう。
これは正しい。でもその一方で、1日の大半を会社に売っている場合、職場で過ごす「僕のものじゃない時間」は意識されないようだ。だから残業して暗くなるまでコンクリートの檻のなかで過ごすと、1日のうちで意識できる「自分の時間」はほんの2時間程度になってしまう。意識される時間が少なすぎるのがサラリーマンをしているとあっという間に1年が過ぎてしまう原因だと思う。
これが会社に時間を切り売りするのを止めると、24時間全てが「僕のもの」になる。8時間は寝ているとしても、サラリーマン時代の8倍、1日16時間も時が流れていくのを意識して過ごせるのだ。もちろんそんな充実した瞬間はあっという間に過ぎてしまうけど、そもそも持っている時間がたくさんあるので仕事をしていないと毎日を長く感じるんだろう。
日常の滑車
シンガポールの恵まれた労働環境でも、夜遅くまで一生懸命働いている人はたくさんいる。もうすぐ22時になろうというのに、地下鉄駅に続く地下道からは次々と人が吐き出される。カフェの前の道をそんな忙しい人たちが家路を急ぎぞろぞろ通り過ぎていく。
彼らはきっと時間が速く進んでいく世界で生きている。そして彼らの明日は今日とあまり変わらないんだろう。「日常」の滑車をカラカラ廻しているウチになんとなく過ぎていく世界。空いた席を片付けてテーブルを拭いている店員さんも、眉間にシワを寄せてメールを打っている向かいの席のサラリーマンも、きっとそっちの世界の住人だ。
ほんの向かいに存在する人と、自分が違う時間の流れに生きていると思うとワクワクする。いわば僕だけが時間の流れが遅い次元断層の隙間からこの世をのぞき見しているのだ。
おっと、サラリーマンと目があってしまった。
あまりキョロキョロしていると僕が異世界の人間であることがバレてしまう。
今の僕は高速で進んでいく日常時間で上手く泳げない。だから今後しばらくはこの無職だけが迷い込むことが出来る次元断層に籠もって静かに社会を観察していよう。僕がまた日常の滑車をカラカラ廻したくなるその日まで。