今日最初の香ばしい苦味が口の中に広がる。
平日の朝。郊外のカフェで空いている席を確保するのは造作もないことだ。こうしてカフェに行きさえすれば、1杯のコーヒーが注文から僅か数分で出てくる。雨の日も風の日も。これって地味にすごいことだ。
この1杯のコーヒーが僕の前の出てくるのに、いったいどれだけの人々が関わっているのだろう。
南米や太平洋諸国でコーヒー豆を栽培した人。果肉を取り除き洗って乾燥させた人。国際物流を通して生豆をこのカフェまで運んだ人。焙煎した人。
何も考えなければ洒落たカップに注いで僕の前に出してくれたバリスタさんしか意識しない。だけどエスプレッソメーカーを作ったエンジニアやこのカフェを建てた大工さんまで含めたら、それこそ万の単位の人間がこの1杯のコーヒーのために仕事をしたことになる。
雨の日にも300円という価格でコーヒーが飲めるのは、世界中で沢山の人たちが協力して生産性を高めた結果だ。僕は毎朝カフェに行く度に人間社会ってすごいなって思う。
無職の後ろめたさ
ここで無視できないのは、エスプレッソマシンをメンテナンスする人に朝ごはんを作ってあげたお母さんのように、間接的に僕の朝の1杯にコーヒーに関わった人たち。そして、国際物流を支えている人たちは別にコーヒー豆だけ運んでいるわけじゃないことだ。
人間社会は人々の協力が毛細血管のように複雑に入り組んで高い生産性を作り上げている。このコーヒーはその網の目を流れ流れて無職の僕のところまでもやって来たんだ。
無職が恥だが癖になる。
この「恥」の感情は、この世界を構成する協力の網の目に参加していない後ろめたさだ。僕は労働の網の目に参加していないにも関わらず、その成果物はちゃっかり毎日享受している。これでいいのか。本当にずっとこれでいいのか。
まぁ良いか悪いかみたいな主観的な話はとりあえず放っておくとしても、絶望的なのはだからと言って自給自足的な暮らしなどほとんど不可能ってことだ。
まぁYoutubeには原始時代みたいな生活を実践する人がいるけど、あれは僕が望む人生じゃない。
とはいえ生きていくのに最低限必要なユニクロのTシャツ1枚さえ自分1人では作り出すことができないし、このブログを書いているiPhoneに自転車漕いで電力を供給することすら難しい。
自分の無力さに打ちのめさせる。
現実問題、人間社会の網の目に歯車の一部としてハマるしかこの世で生きていく術がない。
おカネに貪欲になろうと思う
この「恥」の感情を払拭するのはカネだと確信している。
なんでも良いからカネを受け取ったということは、人間社会になんらかの価値を提供したことを意味する。だから今後は自信を得るために貪欲におカネを手に入れたい。もちろん法を犯さないやり方でね。そうすれば別に無理して寿命をすり減らして勤労せずとも社会の一部として機能している自信を持てるだろう。
毎朝堂々とコーヒーが飲めるというものだ。
それにしても現代が21世紀なのは幸運だった。インターネットがあれば物理的に人間社会のネットワークに歯車としてハマらずとも生きていける。
いろいろあってブログの更新頻度が下がってしまったけど、今のところ一番安定している収入源なのでまた元のペースで書いていこうと思う。