「ふざけんなお前!何度言えばわかる!持ってく資料、朝までに全部書き直しとけ!」
鮫島課長はそう怒鳴り散らしてタクシーで帰っていった。都内ならまだ終電もある時間だけど、あの人が無理して買った夢の庭付き一戸建ては茨城の僻地にある。会社がタクシー代を出すのも今年が最後という噂だ。来年度から課長はどうするつもりだろう。
明日の得意先訪問にうちの課の運命がかかっている。
それはわかっている。でも課の売り上げの九割を僅か二社の上得意に依存している今の営業状態は異常と言うほかない。そこからの不祥事、さらに担当者のバックレ。遅きに失した。僕が書いているこんな付け焼き刃の改善計画を今更提案したところで、一度傷ついた得意先の信頼を回復する望みは限りなく薄い。
しかもそのお詫び営業をするのは明日初めて客先に顔見せすることになる僕なのだ。この期に及んで客先に常駐していた門外漢の僕を代打に引き戻すとは、鮫島課長も正気とは思えない。こんな惨状なら言い訳することもなくバックれた前任者の選択が正しい。
誰もいない深夜のオフィス。見ただけで労働意欲を削がれるネズミ色の事務机が殺風景に並び、それらの上にはガサツな男性が多い営業部隊だけに書類やバインダーの類が地層を形成している。効果があるのか定かではない節電とやらのため、22時以降蛍光灯をつけるには守衛所に申請が必要になった。当然そんなものは出していない。だから暗闇が染み渡っただだっ広いオフィスの中、僕のデスクのシマだけが煌々と照らし出される。まるで深夜にギラつく農村のコンビニみたいだ。
僕は疲労に目をキツく閉じた。
ふと目の前にスラリとした若い女性が現れる。長い黒髪を1つに束ね、白地に黄色い花柄のワンピース。不思議と顔は意識できない。意識する必要がないんだ。彼女が絶世の美女だろうがそこら辺にいる普通の女性だろうが、彼女は僕の心の隙間を埋めるためだけに存在するのだから。
また弱腰?あなたもバックれればいいんじゃない?
表情は読み取れないけど、どこかからかっているような含みがある。そうだな。この仕事に未練はないし、上司や同僚に恵まれているわけでもない。あぁ、そうだ。めんどくさい。
いつもそう。あなたは面倒くさいばっかり。たまには強い意志を見てみたいものね。もしそんなものがあるんなら。
彼女はクスッと笑ったように感じた。思えば僕はずっと周りに流されて来た。この会社にも、もうとっくの昔に辞めた大学の同期の紹介で入った。炎上したプロジェクトの捨て駒として。あれからもう三年。今夜も他人が引いた貧乏くじを押し付けられて徹夜になりそうだ。僕の意志か…。
好きにするといいわ。
ああ、そうするとも。イラッとするのにもウンザリして僕は目を開けた。都心の夜空が白んでいる。いつの間にか僕は会社のトイレの個室で寝ていたようだ。
∞∞∞∞∞∞
夢か現実かはっきりしない、浅い意識の中に居場所を見出すようになってどのくらいになるだろう。
不眠症。最近は入眠障害ともいうらしい。なかなかオフにならない意識を転がしながら寝床で翻筋斗打っていると、その気になればいつでも目覚めることができる浅い眠りに軟着陸する。
そこから深い眠りに沈んでいこうと毎夜苦悶するうち、ある晩、僕はこの浅い夢に登場人物を招くことに成功した。
凛とした長い黒髪、白地に黄色い花柄のワンピース。最初のうちは誰かのメタファーなのだろうかと考えたけど、今まで人生で僕はそんなに女性と関わってこなかったクチだ。
「おい!聞いてんのかお前!」
鉛のようなまぶたを開ける。真っ赤な顔の鮫島課長が怒鳴り散らしていた。結局明け方にやっつけ仕事で書き上げた資料は、やっぱりこの人の御眼鏡に叶わなかったらしい。そりゃそうだ。ズブの素人が突然引き戻されて完璧な業務改善案など書けるもんか。そもそもそういう逸材はゴミ溜めみたいなこの会社にはいない。
「もう時間だ。こんな資料じゃ先方の岡田専務が納得するわけがない。俺が直接詫びを入れる。正門に営業車を廻しとけ」
お前も来るのかよ。ってか最初からそうしろよ。
事務でキーを受け取って、社屋の地下駐車場にカビ臭いエレベーターで降りる。ドアが開く。コンクリート打ちっ放しの薄暗い空間。取り締まり役たちが乗る趣味の悪いセダンの向かいに、安っぽい営業車が4台停めてある。営業車ってどうしてどこも白のライトバンなんだろう。下手に出て客先にへりくだるとは言っても、こんな野暮ったいクルマで訪問されて印象が良くなる人がいるのだろうか。
そのうち一台の営業車の前に立つと、無意識に重い溜め息が漏れた。ろくに寝ていないヤツれた中年男の顔が、安っぽいサイドウィンドーに亡霊のごとく映っている。思わず目を背けた。僕の肩越しに彼女もいる。
あなたの意思はどこ?
知るかよ、めんどくせぇ。ニュートラルでアクセルをベタ踏みした轟音が地下駐車場に響く。それが僕の心を代弁してくれた気がした。
∞∞∞∞∞∞
「なんでお前ってのはそう鈍臭いんだ」
下道では黙りこくって思いにふけっていた鮫島課長が、首都高羽田線に入った途端に説教を始めた。知るかクソ。
「お客様の視点で考える。営業として当たり前の心構えがからっきし出来てない。お前もういくつだ?あ?俺がお前くらいの頃にはとっくに家族を持って家を買ってケジメをつけていた。そういう心構えがお客様にも響くんだよ」
あなたの意思はどこ?
僕の隣、助手席に座る初老の男は営業畑を30年駆け回ってきた万年課長だ。まぁ辛酸舐めてきた僕みたいな氷河期世代にとって、万年課長はもはや褒め言葉だけど。
「お前の鈍臭さは血の問題かね。教育でなんとかなる気がしないよ。辛抱強い俺だって匙投げそうだ」
平和島ジャンクションから大型のタンクローリーが合流して来た。巨体の割にスピードが乗っている。無理して本線の観光バスより前に入ろうとしているんだろう。錆びた発電機みたいな鈍いエンジン音に鮫島課長のダミ声がかき消される。サイドウィンドーからは敵意むき出しに回転するタンクローリーの大きなダブルタイヤが見える。
あなたの意思はどこ?
さっきからずっと黄色い花柄のワンピースがバックミラーに映っている。僕の意志。アクセルを踏みこんで力の限りハンドルを左に切った。鈍い悲鳴を聞いた気がする。
そして、僕はやっと重いまぶたを閉じた。
※この物語はフィクションであり実在の人物や組織とは関係ありません