人間関係が苦手な僕と仕事としてのプログラミング

僕がプログラミングに興味を持つキッカケは確か小学3年生の時だった。クラス替えのあと初めて出来た友達の家に遊びに行って、そこでWindows95を触らせてもらったんだ。

彼のお父さんはどこかの企業で研究者をなさっていて、今や懐かしいBASICという言語で迷路を自動生成するコードを書いて見せてくれた。その当時学校では自由帳にパラノイア的に細かい迷路を書くのが流行っていたので、ご尊父は僕ら小学生の興味をひくために工夫してくれたんだと思う。

まぁとはいえパソコンという存在を僕はその時に初めて知ったわけで、普通の小学生がそうであるように「高価なおもちゃ」として理解した。要はパソコンはデジタル版の自由帳だったんだよね。それでペイントで絵を描いたりメモ帳にシロクマのぬいぐるみとタオルケットが主人公の物語を書くに留まり、プログラミングに関してはよくわからない「高価な大人のおもちゃ」に過ぎなかった。

それでもパソコンで絵や文章を書いているうち、僕は「コピペ」という概念に魅了された。

パソコンがあれば一度やった作業を簡単に複製できる。ちょっとずつ違う絵を印刷してデジタルパラパラ漫画を作るにしても、ペイントでコピペしてから動かす部分だけを描き足せば良い。さらにフロッピーディスクに保存すれば別のパソコンに移動しても過去にやった作業をそのまま再開できる。

こうやって文章にするとWindows95の時代にクラウドの概念を理解していたわけで、もしあのままのペースでパソコンに馴染んでいれば今頃は天才エンジニアになっていたかもしれない。

ところが間もなく我が家にもスーパーファミコンがやってきて、僕の興味の全てはマリオに持っていかれた。

プログラミングを仕事にするまで

その後も幾度か触れる機会はあったものの、僕が真面目にプログラミングに向き合うのは時が流れて大学に合格ってからだった。

なんというか時間があったんだよね。それにこの頃にはデジタル絡みの諸々を理解できるようになっていて、ジャンクパーツを寄せ集めて自分でパソコンを組み立ててなんか面白いことをしたくなった。

それでとりあえず手を出したのが当時流行はじめたJavaだった。

JavaはOracle傘下になってから一撃で鯱張ったクソ言語になってしまったけど、あの頃はJava Appletという技術があって簡単なプラグインをブラウザに組み込むだけでかなり本格的なゲームをネット経由で公開することが出来たんだ。これも今ではすっかり化石になってしまったけども…。そういえば自分のサイトにアフィリエイトの広告を貼ったのも18歳の時だった。あれば全然儲からなかったなぁ笑

ところが本格的にプログラミングを始めて半年経っても1年経っても、僕は自分の技術に自信を持てなかった。なんというか世の中に役立つことをやっている実感が持てなかったし、果たしてこの程度の戯れ事が将来仕事になるのかも謎だった。

そんな折、学食の掲示板に貼られていたひとつのアルバイト求人が僕の人生を変えた。

「応募条件: C言語が書けること、時給: 1000円」

15年前に時給1000円というのはかなり魅力的だったし、何よりコツコツ独りで研いてきたプログラミングのスキルを換金できるなんて夢のようだ。それでC言語なんてろくすっぽ書いたことなかったけど、勢いでとりあえず応募してみた。っていうか「C言語が書けること」って要件に応募したとか今思うとあまりにも世間知らずだよね。今ではC言語を死ぬまでかかっても理解することが出来ないと確信している。僕も若かったんさ。

そんで実際アルバイトの面接に赴くと、開口一番聞かれたのはヤル気とかそんな抽象的なんじゃなく「最近何をつくったの?」っていう超現実的なヤツだった。それでネットに繋がったパソコンを使わせてもらい、自分のサイトのゲームをプレイしてもらった。

「へー。面白いね。今日このまま作業してく?」

え、今からっすか?それが事実上の採用通知だった。あの、実は僕Javaしか書いたことないんすが…。

「んー、まぁなんとかなるよ」

挫折から見える地平

この会社には大学4年生になって研究室が忙しくなるまでお世話になった。大学生としてはそれなりに稼いでいた方だったろう。それに就職活動を始めたら学生なのに即戦力になる実績を引っさげて挑んだわけで、2社受けて2社とも内定を頂き大きい方に行くことにした。

順風満帆。

この頃は「手に職」こそが身を助けると信じて止まなかった。

ところが。

大きな会社で正社員として働き始めたら、途端に僕は落ちこぼれになった。大企業で求められるのは職人的な技術力だけではなく、曖昧でコロコロ変わるお客さんの要望を忖度しつつ、癖のあるチームの歯車として忠実に動くことだった。その中には客先や飲み会での立ち振る舞いも含まれる。

仕様書に従ってコーディングすることはそれなりにこなせたけど、僕はぶっちゃけそれしか出来なかった。

学生バイトの時はこんな僕でも上手く働けていたのは、プロジェクトリーダーが今考えても驚異的に優秀な人だったからだ。彼はチームのそれぞれの能力に見合った仕事量を各人に切り分けて、プログラマはコーディングだけしてれば良い環境を作ってくれていた。それに僕はアルバイトだったので飲み会や会社の行事に出席を強制されることもなかったんだ。

あの会社に戻りたい。

何度そう思ったことか。それでも新卒で入った会社は大企業だし、おそらく給料も良かったと思う。それでズルズルと自分の無能さに苦しんだ末、うつ病になって僕は日本から脱落してしまう。でも結果的にこれでよかったんだと思う。その後運命のめぐり合わせでシンガポールで転職する際も、大きな会社に5年も在籍していたことが評価されたと感じた。

発達障害で仕事詰んだら手に職つけて多民族国家へ移住するとラクかも
日本人社会では考え方や行動の個性が強いと「普通」の波に乗って生活できず「社会の常識」に潰される。これを「大衆圧力」と呼びたい。英語だとpopular pressureとか言うけど正確に同じ概念かは謎。...

あの苦しみは無駄ではなかった。

そしてシンガポールの仕事もクビになった今感じているのは、やっぱり技術を学ぶのは楽しいってこと。

この資本主義経済で換金できるスキルって、会社組織の中でしか活かせないのばっかりだ。例えば営業職は売る製品やサービスを作り出す人が別に必要だし、研究職だって研究設備を備えた企業の一部に過ぎない。でもエンジニアなら自分で製品やサービスを作り出すことができる。それがソフトウェアやアプリなら材料費や輸送費もかからないうえ、手数料は取られるけど必要としている人に売っていく仕組みもたくさん存在する。

だから仕事を失ったときに最初に頭に浮かんだのは「フリーランスに挑戦してみよう」というポジティブな感情だった。

僕は企業組織に馴染めず2度も失敗したからこそ、もう会社員の地位に未練はない。環境は全てここにある。あとは僕がやるか、やらないかだ。

その覚悟で今日も僕は手を動かす。