やっぱ止めた!が出来ないのは人生のリスク

「なんだか久しぶりね!シンガポールを去るって聞いたわ。それまでに我が家でBBQでもしましょう」

6年前、僕がバックパッカーとして初めてシンガポールにやってきた時からの友人、そしてホステル管理人時代のボス。Theシンガポール女子氏がメッセージをくれた。うん、BBQはもちろんやりたいし、ホステル時代の同僚たちにもこの国を去る前に挨拶しておきたい。

でも…。彼女の方から連絡してくる時は何かしら具体的な用事があることが多い。それはぶっちゃけ雑用だ。嫌な予感がする。

「それでね、」

ほらやっぱキタwww

「来年から我が家を賃貸に出すことにしたの。それで出来れば日本人に借りてほしいと思ってて。女性がいいかしら。キレイに使ってくれるだろうし、日本人に家賃を踏み倒されたなんて聞いたことないし」

はぁ。なるほど。彼女もついに結婚を決意したんだな。それで若気の至りで買ったワンルームマンションを手放して、家族向けの公団住宅に住み替えるのだろう。

「だからシンガポールの日本人コミュニティを紹介してほしいの。それでそこのWebサイトに賃貸情報を日本語に翻訳して掲載してほしいの!」

僕が!?

「そう、あなたが!やらないと!死刑だからっ!(ハルヒ風)」

アッチョンブリケ!!やれやれ。僕みたく破滅的に掃除が苦手な日本人もいるのだがね…。黒猫が歩いたら白猫になるような、僕の窓無し3畳の独房にお招きしたいもんだ。自慢だけどくしゃみと咳が止まらないぜ。

とはいえまぁ、不良品である僕以外の日本人は皆しっかりしているのだろう。それに朝から晩までお香を焚いたり、ニンニク臭い腐った白菜を冷蔵庫に溜め込んだり、毎日油モノを料理する日本人は客観的に少なそうだ。さらに彼女は僕がシンガポールで第2の人生を初める最初の一歩を強烈にサポートしてもらった恩人ときてる。

そんなわけで物件の売り文句や契約条件を英語で送ってもらい、それを僕が日本語に翻訳して「お役立ちウェブ」というシンガポール在住日本人の情報掲示板に投稿することになった。女性に上手いこと利用されてしまうのが僕の欠点であり、いざガチで露頭に迷ったらそこらへんの女性が助けてくれるのが僕の強みなのだ。

などと勝手に納得していただんけど、後日彼女から送られてきた賃貸情報に驚愕。まじで顎が落ちたね。

その家賃の欄には、なんと退職する前の僕の月給が書いてあった。

追加投資が退路を断つ

ちょいちょい!この家賃!コンドミニアムといえどワンルーム(Studio)にしては高すぎじゃん?

「そんなことないわ!アタシは儲けなんて1円も設定してない。これは住宅ローンの1ヶ月ぶんでしかないのよ」

不動産が焦げ付いて結婚できないシンガポール

高値掴み。日本のマスメディアは底抜けに頭が悪いので今だにシンガポールをキラキラバブリーな国として報じるフシがある。でも実際は2012年付近を堺にシンガポールの不動産市場は下落に転じ、それにつられて賃貸市場も低迷し続けている。

というのも、シンガポールの高級不動産の価格は長らく外国資本により維持されてきた。それにも関わらず政府が「民意」ってやつに応えて移民を抑制しはじめたのだから、一気に外国資本が引き上げるのは必然。僕の窓なし3畳の独房シェアハウスですら、長らく8室中3つが空室なのが現状だ。大家さんは過激な人なので、もう2年も人が住んでいない部屋の壁をぶっ壊して居間を拡張してしまったくらいだ。

そこまでしてでも不動産価値を出していかないと、マジで物件が埋まらないのがシンガポールの賃貸市場のリアルである。

シンガポール在住日本人で最底辺の僕が結婚願望を持ったらブチ当たる壁

しかもマズいのは、そんな不利な状況でもどんどん不動産に資本をつぎ込んで損を重ねることだ。

彼女のコンドミニアムも、なんだか家に遊びに行くたびに調度品が増えている。去年遊びに行った時は純白の電子ピアノが出現して、今年の6月には子供の背丈ほどもある大きな花瓶に巨大なヒマワリが生けてあった。こんなヒマワリの生花をどこで手に入れるのだろう。

日本と違って必要な家具や電化製品が全てついている物件が一般的なシンガポールにおいて、内装や調度品のセンスは不動産価値をダイレクトに左右する。純白の壁、クイーンサイズのベッドやチェストはもちろん、床もよく磨かれた純白の大理石。でも…。そんなパラノイアなまでに白で統一したこだわりの空間デザインも、正直僕の月給分の価値があるかというと微妙なところだ。

それは僕の給料が高いという意味ではなく、そもそもシンガポール人は賃貸物件に住むのを嫌うのである。シンガポール人にとって不動産とは資産であり、賃貸物件に住むことは大家の住宅ローンを肩代わりする愚行でしかない。だから自分名義の不動産をなんとかして手に入れるその日まで、意地でも実家で暮らすのが合理的選択なのだ。僕だってシンガポールで生まれ育ったらそう考えるに違いない。

だからコンドミニアムを賃貸に出すなら、想定される店子は外国人ということになる。

ところがシンガポール在住6年の僕が客観的に思うに、彼女のコンドミニアムは在星日本人にとって魅力的ではないだろう。まず日本人学校や著名なインターナショナルスクールから離れすぎている。それにシンガポール人からしたら有名な閑静な住宅街なのだけど、地の利に疎い外国人からしたら電車駅から遠く、商業施設からも隔絶された辺鄙な丘の上でしかない。

それに加えて、家賃が数十万円もする家を借りるのはシンガポールに好き好んで住んでいる現地採用には到底ムリで、ターゲットは会社の命でシンガポールに送り込まれた根腐れ駐在員ということになる。でも成金駐在員の多くは家族連れであり、ワンルームタイプの物件を選ばない。

合理的にどう考えても、彼女の物件に日本人が住む日は来ないだろう。

逃げ道のある柔軟な人生

いい学校、いい会社、いい人生。

日本で言えばこんな風な「いい人生」の幻想ってどこの国にもあるんだろう。シンガポールでいうそれは、いい学校いい会社からの「いい不動産」である。なんとかして頭金を工面して最初の不動産を手に入れる。そしてそれを賃貸に出して店子にローンを肩代わりさせたうえ、利益も上乗せする。そして2つ目、3つ目と所有する不動産を増やし、早期リタイア。あとは安定した家賃収入でやんごとなき老後が約束される。

市場が下落に転じたにも関わらず、シンガポール人の多くは今だこの不動産の亡霊に憑かれている。

目まぐるしく変化するグローバル経済にほぼ完全に国を開放しているシンガポールは、その激流の真っ只中にさらされている。こんな状況では近未来の変化すら予測することが困難だ。これは日本よりも過激に悪化しているシンガポールの少子高齢化の根本原因でもあると思う。

だから未来の意思決定を制限するような行動はリスクでしかなく「やっぱやめた!」する余地を残しておくのが現実的選択。世の中の流れが予測できないほど速くなった昨今、「もしも」に備えた選択肢に「のりしろ」を確保しておくことが安牌だ。

彼女の物件をなんとかアピールしてやろうと文面を絞り出しているうち、そんなことを僕は思った。