眠れぬ夜は機械の街へ逃避行

暗闇の中で目が覚める。妙に頭がスッキリしているように感じるけど多分2時間くらいしか寝ていないはず。不眠症を患うと常に寝不足で脳がボワンボワンしているから、ちょっと寝ただけで充分に休息できたような錯覚を覚えるんだ。でも僅か2時間の睡眠では蓄積したマイナスがゼロ付近に回復したに過ぎず、プラスのエネルギーは全然溜まっていない。だから目覚めたところでどうせ朝日が昇る頃にはバテるんだけど、だからといってここからまた寝付くのも不可能だと知っている。

やれやれ。

目を開ける。

時計を見る。

午前3時半。

はぁやっぱりね。思わず深く息を吸い込み、長い溜息を吐く。寝付くまで多くの時間を費やしても実際に心安まるのはその苦労よりも短い。今夜も熱帯夜。身体がほてっている。冷たい水でシャワーでも浴びようか。

…止めた。

これで重い身体に無理やり再起動をかけても、今日をまともに生き抜ける体力はない。暗闇の中でまた目を閉じると感情が変化したプチッという音が聞こえた気がした。僕は何も考えずガラケーを引っ掴み、体調不良で休む旨をメールで上司に送り電源を切った。

罪悪感、劣等感、危機感、焦燥感、不安感。

うるせぇ。うるせぇ。うるせぇ。

不眠症と言えば精神的な問題と扱われるけど、こんなにまで疲れ果てても心身を休めることが出来ないのは明らかに脳という臓器の病気だ。いつまでも寝付けずそして寝続けることが出来ないのは体調不良と呼ぶに相応しい。

それに…。なんか今さら真面目さや忠誠心を示したところで、どの道もう働き続けるのは無理な気がしている。朝シャキッと起きて電車に乗ることさえ難しいのに、定年まで勤め上げるとか笑える話だ。もう長いこと、1年以上満足に寝られていない。だから事実上毎日徹夜で出勤しているようなもの。客先の評価も実際の業績も明らかにチームの足を引っ張っている。仕舞いには後輩にまでタメ口を叩かれる始末。

うるせぇ!お前らも1年徹夜で仕事してみろや!

辞めるかクビになるか。こんな状態の僕にとってそれは選択の問題ではなく、時間の問題だ。だったらもう蟻地獄に抗うのを止めて堕ちるところまで逃避行と洒落込もうと思ったんだ。

闇夜の逃避行

ここは東京都大田区の昔ながらの商店街。

農地を切り開いて造成された多摩の殺風景な団地で育った僕は、ずっと都内の下町に憧れていた。「それでも町は廻っている」の舞台である丸子商店街みたいなやつね。だから度重なる転勤の末に遂に東京23区内に住めることになった時は、迷わず活気ある昔ながらの商店街の裏路地に家を借りた。それこそ八百屋と魚屋が本当に大声で売り込みをしていて、その裏手には入れ墨だらけの男衆が集う銭湯があるような思い描いていた通りの商店街。

チェーン店が多い活気のある商店街が好き
「それでも町は廻っている」という東京下町の商店街を舞台にした日常系マンガが好きで、何度も繰り返し読んでいる。作者の石黒正数先生が「人間関係の教科書」と紹介なさっているように、人付き合いがツラい時に...

ところがそんな活気あふれる昼間の大好きな時間を、僕は毎日会社に二束三文で売っぱらって生計を立てている。そして貴重な週末さえもボロ雑巾のようにベッドから動けずに過ごさざるを得ない。そういえば八百屋おっちゃんから野菜を買ったのは引っ越してきた当日のよく熟れたイチゴだけだ。

あぁダメだ。このまま寝られないんじゃひたすらネガティブ思考の沼に沈み、せっかく病欠して得た24時間の逃避行が無駄になる。

僕はシャワーも浴びずに外に出た。

昼間と打って変わって暗闇に溶けた商店街にはまったく人の気配がない。青白い街灯が規則正しくシャッターが降りた通りを照らすなか、コンビニと牛丼屋だけが地平線の彼方に見える砂漠のオアシスのごとく煌々と明るい。今どき活気のある商店街は昔ながらの店だけに固執することなく、流行りのチェーン店をいくつか受け入れている。すると人の流れが出来て既存店の需要も増えるのだろう。

僕はアルコールの喧騒が過ぎ去った後の夜明け前の街が好きだ。この時間、人間の感情で動いているは部分は全て機能を停止して、まるでシステムとして成り立っている部分だけでかろうじて街の機能を維持しているみたいだから。

機械の街。

僕は商店街のコンビニで缶入りのハイボールを買った。無駄な会話を一切省き、ワンオペしている草臥れたおっさん店員に軽く会釈するだけでキンキンに冷えた酒を手に入れられる。酒を買う人、酒を売る人。僕も彼も、明け方の街を構成する気だるいシステムの一部なのだ。

フリーターで暮らせる日本は幸せか
日本にも外国人が増えた。 インバウンドの観光客だけでなく、日本社会を支える労働者として日本で暮らす外国人。 特に都心で深夜のコンビニや牛丼屋に入ると、かなりの高確率で外国人に接客してもらう...

熱帯夜に呑むハイボールはさっぱりしていて美味い。ときにビールよりも美味いんじゃないかと思うくらいだ。東の空が白み始めるまであと1時間。早朝覚醒で毎朝夜明け前に起きてしまうから日の出の時間は詳しく知っている。

さてどこへ行こうか。

特に行き先が思いつかないとき、僕は海に向かって歩く習性がある。海が近くにないときは河。老後は堤防の様子を見に行って行方不明になる爺になるのかもしれない。

大田区の商店街から僕は何も考えず南にテクテク歩き始めた。

ここから1時間くらいの距離に羽田空港がある。ハイボール片手に散歩するにはちょうどよい。それに今日一番の飛行機がもう程なく着陸するはず。きっとしばらく散歩していればギョッとするほど大きなジュラルミンの固まりがサーチライトを光らせて空から降りてくる姿を見られる。

今朝の逃避行、目的地は羽田空港C滑走路の延長線上に存在する「城南島海浜公園」に決めた。

ジュラルミンのリセットボタン

僕は飛行機に乗るのがあまり好きではない。

狭い場所に何時間もジッとしているのが苦手だし、何より時間どおりに所定の場所で所定の手続きを済ませないと乗せて貰えないってのがあまりにも不便すぎる。一刻も早くSpaceXみたいな宇宙ベンチャー企業に頑張って頂き、商店街の裏路地からフラりと飛び乗れるようになってほしいものだ。

でも僕は飛んでいる飛行機を見るのは好き。

今いる場所がどんなにツラくて大変でも「ここではないどこか」が広い世界に確実に存在する。そこには日本とは全然違う価値観で生きている人たちがいて、その中には僕を受け入れてくれる個性豊かな仲間がいるんだ。夜明けの飛行機を見ているとそんな気になる。僕だっていつかアレに乗って知らない街へ行ってやる。ここよりもっとずっとマシな暮らしをしてやるんだ。

そんな「どこか」のひとつから飛来して次々とまた別の「どこか」へ飛んでいく飛行機を見ていると、こんな風な根拠のない希望がメラメラと湧いてくる。

程よくアルコールがまわってきた。

高級住宅街の代名詞である田園調布を擁する東京都大田区だけど、現実そのほとんどは工場街である。川崎と違って灰色の煙突が空を覆う工業地帯ではない。一見普通の住宅地なんだけど、ちゃんと見るとアパートくらい小さい作業場や倉庫が民家に混在し町並みに同化している。

そんな大田区の原風景もいまはまだ暗闇の中。人の気配は不思議なまでに無く、街灯に照らされてオレンジ色に浮かび上がる雑多な町並みにはちょっとした異世界感がある。そこを赤ら顔でフラフラと進んでいく僕はさながら異世界人。

東の空が白んできた。熱帯夜が終わり、日本の蒸し暑い夏がまた始まる。

そうだ。

ここで上手くいかなくても、だって異世界なんだし。そして僕は異世界人なんだ。上手くいかなくて当然じゃないか。もういい加減こんな陳腐な世界はほっぽりだして、自分の故郷を探しにいく旅に出よう。人生のリセットボタンを押すんだ。いままでの人生で誤って設定したパラメータを一度全部初期化して、なにもないところから積み上げ直そう。

うん、それがいい。

そこへキーンという轟音が薄闇を切り裂き、白んだ空を切り取ったようにANAの一番機が車輪を出して降下してきた。きっと国際線だろう。僕にはその白い鉄の固まりが大きな人生のリセットボタンに見えた。

いつかあれに乗って、僕は遠くの街へ行くんだ。