家に帰りたい人、家に帰りたくない人

シンガポールのチャンギ空港を飛び立ち、羽田空港に着陸するまで7時間くらいかかる。僕はそんなに長いこと狭い場所でじっとしているのが苦手だから飛行機が好きじゃない。

それでも降下していく飛行機の窓から煌めく東京の夜景を眺めると、まるで未来都市のようなそのサイバーパンク感に心が躍る。特に南北に伸びるA滑走路に東京湾側からアプローチするとき、僕は思わず窓に目を奪われる。

巨大なジャングルジムみたいにダクトが複雑に入り組んだ石油精製工場が、発光ダイオードを思わせる目に刺さるように真っ白な照明で規則正しく照らされている。それに無数の蛍光灯でつくられたどこか無機質な東京の夜景をバックに、高い煙突から吹き出した特大の炎が躍動する様は空から見ても圧巻だ。

隣の乗客に気兼ねして席を立てず消耗するけど、毎度このサイバーパンクな東京湾岸の夜景を見ると、左側の窓側席をあてがわれたのはラッキーだなどと感覚が麻痺してしまう。

そんなことを考えていると飛行機は鋭く左に旋回し、軽やかに東京国際空港羽田に着陸した。

高速バスは救世主

東京国際空港羽田って首都大学東京みたいだよね。これも石原爺の陰謀なのだろうか。

そんなことはどうでもいいとして…。

お家に帰るまでが遠足とするならば、お家に着くまでが「帰国」である。

羽田は横浜駅のように拡大し続ける空港だけあって、僕のような貧乏人が乗る格安航空LCCが接岸するのは巨大な国際線ターミナルの最果てになる。しかも今回はシンガポールからの完全撤退。だいぶ断捨離したにも関わらず、文字通り全ての所持品45KGを空港から実家まで運ぶのはうっかり悟りを開きかねない厳しい修行だ。

まぁ裕福でいらっしゃる方々は、クレジットカード付帯のサービスで自宅までスーツケースを宅配したりするらしい。でもこちとらクレジットカードの審査が通らない身分。僕くらいのアウトカーストMUSHOKUに堕ちると、自分の荷物は自分で運ぶ以外に選択肢はない。

重い荷物を持って東京の電車に乗るのは危険だ。

ホームを上がったり下がったりに疲れるだけでなく、混雑した終電に巨大なスーツケースを突っ込もうものなら、酔って気性が荒くなった根腐れ社畜に攻撃される可能性すらある。社畜帝国の首都は、かくも余裕がなくギスギスした危険な場所なのだ。

そんな時、頼りになるのが空港発着の高速バス。

高速バスなら荷物の取り回しを気にする必要がないし、必ず座れる上に乗り換え無しで目的地まで連れて行ってくれる。さらに結構マイナーな郊外の私鉄駅までも意外と頻繁に出ていて、何より夜遅くまで営業してくれている。

この日も日付をまたぐ直前に羽田空港の税関を通過したにも関わらず、なんとか地元に比較的に近いターミナル駅までの最終バスに間に合った。

今夜中に東京多摩の実家まで辿り着くのは到底不可能。それならせめて土地勘のある郊外に移動して、馴染みの安宿で夜を明かそうという魂胆だ。

帰りたい者、帰りたくない者

羽田空港の国際線ターミナルを定刻通り出発した高速バスは、暗闇に沈んだ東京湾岸をしばらく走った後で首都高速の地下に潜った。そしてその頃には日英中韓の4ヶ国語放送で行き先や注意事項のアナウンスが始まる。

このバスが終点に着くのは午前2時くらい。

そんな夜遅くに日本の辺鄙な地方都市に投げ出されて平気な外国人なんてこの世にそうそういないだろう…。毎度そんな風に同じことを思うところまでが僕の帰国ルーチンである。

ただシンガポールからの完全帰国であるこの夜、僕は首都高速の地下トンネルを北上する深夜バスに複雑な気持ちで乗っていた。べつに僕の境遇を憂いていたわけじゃない。僕の感情がザワザワと揺らいだのは、バスが出発する前に空港で運ちゃんたちの何気ない会話が耳に入ったのがキッカケだ。

運転手A「えっ、まだ居残りしてんの?!」

運転手B「そ!朝からずっと。最近マジで人がいなくて、ウチ(の会社)は全員居残り(残業)ありきのシフトなのよ」

運転手A「ウチも同じようなもん。この会社おかしい。マジで」

運転手B「でもまぁ人がどこも足りてないし、居残りしなきゃ廻んないもん!はっはっは」

羽田空港と首都圏の郊外を結ぶ高速バスには複数の会社が参入している。独占禁止法なのか、公平な入札ってヤツの結果なのか。そんなんだからさぞ競争が激しいんだろうと思いきや、現場のスタッフたちは清々しいもん。

所属企業に関係なく運ちゃんたちは仲が良さそうで、発車までの短い時間に世間話に花を咲かせている人も多い。そうかと思うと出発した瞬間から営業モードでアナウンスを始めるので、そのギャップに彼らのプロ意識を感じる。会社に愚痴をこぼしていた2人の運ちゃんたちも制服が違うところを見ると別の運行会社に所属のだろう。

どこも人が足りないから残業は仕方ないと苦笑していた運転手Bは、プライベートを超過勤務に捧げてもむしろ会社から必要とされていると感じるタイプなのかもしれない。人が足りないなら運賃を値上げしてより良い待遇で人員募集するしかない。その努力を怠っている経営者を批判することなく、現場の無理な努力で現状維持しようとするのは「社畜脳」である。

社畜脳の人は実は充実したプライベートを持っていない場合もある。休みをもらってもパチンコで負けたり孤独を感じるから、かえって仕事をしていたほうが楽しいと公言する人も。

それに対して運転手Aは、運転手Bに対して最後に何か言いたげな感じがした。でも発車時刻が迫っているし、お客の前で会社の批判をするのは良くないから言い淀んだのだろう。

運転手Aに充実したプライベートがあって、連日の深夜残業にウンザリしているなら…。もしかしたら家族がいるのかもしれない。この運転手さんは帰りたいんだ。

そんなことを考えていたら帰国早々暗澹たる気持ちになってしまった。

運転手さんの自由時間を犠牲にして運行される深夜の高速バスは、今夜も社畜の残業で煌めく東京の夜景を縫って西へ向う。

無職の僕を乗せて。