無職なのにミーアキャットのごとく背伸びして高級な部類の食事をしてきた。いわゆる健康で文化的な最低限度の生活ってやつ。
それで最初にテーブルに出てきたのは、白くて丸い大皿の中心からちょっとズレた位置に漆黒の魚卵が撒き散らされてる感じの、ポアレとかガレットとかそんなノリの呪文料理。そこに真紅のソースが飛び散って、何やら意味深な文様が描かれている。僕はてっきりチョウザメのダイイングメッセージかと思ってしげしげと眺めたんだけど実際「網にかかってヤられた」とか訴えかけてきて食事どころの騒ぎではなかった。
そんなことはどうでもいいとして。
でもそのアートでエッヂの効いた料理が牛丼の40倍する値段に見合うほど美味かったかと問われたら、僕は確信を持ってNoと答える。
確かに美味しいは美味しい。
でも僕がそれより牛丼を40杯食べたかったなぁと感じちゃうのは、そもそも皿がいちいちデカすぎて喰い難いし、食べ物はせめて真ん中に気前よくガツンと盛ってほしいからだ。しかもテーブルクロスからナプキンに至るまでシミひとつ無い純白なのもクソ。皿をひっくり返して汚したら公開処刑で明日の具材にされるかもしれない(ししもんの肉が美味しいかは別にして)。
そんなんだから僕みたいな不注意な人じゃなくても食べこぼしが怖いらしく、押しなべてみんなナプキンを膝の上に乗せておっかなびっくり少量を口に運んでいた。
あとせっかくオシャンティなレストランなのに、とにかくオバさんとお婆さんがうるさい。BGMの音量が小さい上に喋っている人が少ないから必然的にBBA48が目立っちゃうんだろうな。
とにかく背伸びして食べた御フランス料理は、騒々しい上にしゃちほこ張った文字通り僕には分不相応な代物だった。
高級なサービスが内包する虚構
高度1万メートルでゴロンと寝られるシート。
そんな長距離便のファーストクラスに僕は1度だけ乗ったことがある。元々は当然エコノミークラスだったんだけど、航空会社の手違いでオーバーブッキングになり(この時点で北米の某発展途上国での話だ)搭乗便を遅らせる見返りにアップグレードされたってわけ。とは言えまぁその時も無職だったから実にラッキー(=^・・^=)♬
ところが実際に高度1万メートルでゴロンと寝転んでみて気づいたのは、僕はベッドに住み着いているぬいぐるみ達やタオルケットと会話しないと寝られないってこと。
お風呂を描写する時はなぜか黄色いアヒルを浮かべるだろう。実際風呂にアヒルを浮かべている人は知らないけど。そんなメタファがこの世には必要なんだ。だからベッドにはテディベアみたいなメタファーが存在しないと、眼の前に描かれた物体をベッドとして認識することが難しくなる。
もう15年くらい僕のベッドに住んでいるブタのぬいぐるみは、毎晩寝る頃になると唐突にそんな哲学談義を始める。で、それを聞いてイラついた今治製タオルケットがぶーちゃんを食べちゃうの。
これが僕が安眠を得るための様式美であり、毎晩欠かせない儀式である。
でもファーストクラスの寝転びシートで三十路のオッサンがブタのぬいぐるみと喋っていたら…。スッチーがファーストクラスで見た一流ビジネスマンの立ち振る舞いみたいなヤツ。奴らにぬいぐるみとお話するオッサンの評価を聞いてみたいものだ。
ファーストクラスはクソ。
さらにシンガポールで泊まった5つ星の高級ホテル、ラスベガスで泊まった6つ星ホテル。こんなに星がインフレしている昨今、中国の内陸部あたりに5千億万兆星ホテルとか出来そうなのだが、それでも一緒に泊まった相方は「さすが給仕の立ち振る舞いが違う!(意訳)」みたいに感動していた。けど、僕からしたら東横インのちょっとやつれて眠そうな受付嬢のほうが人間味があって心安らぐんだけどね…。
要するに人間が満足するサービスには大きな幅があるにも関わらず、それが史上最高のものであるかのように振る舞うのが高級なサービスの虚構だ。だから僕はおカネで買えるステータスにハリボテのような虚無感を抱く。
下流社会から隔離される価値
ところが。
社会にここまで強烈な経済格差が広がると、下流社会は冗談抜きにヤバくなる。それこそ武力と暴力が支配するヒャッハーゾーンだ。
そのような危険なスラムが生活圏のあちこちに形成されている昨今、トランプ大統領が標榜するメキシコ国境の難民防御壁みたいな存在が価値を持ってくる。ノブレスでオブリージュな「持てる者」にとって、下品なヒャッハーゾーンから隔離されることそのものが価値でありサービスなのだ。
いわば御フランス料理屋で下品にガハガハ笑うBBA48とか、牛丼屋で泥酔するような連中と同じ空間に存在したくないわけ。
そう考えるとこの世に高級サービスみたいな虚構が存在する理由を理解できる。
提供されるクールな呪文料理、高度1万メートルのゴロ寝、6つ星ホテルの布団を敷いて寝られる広さのトイレみたいなのは、あくまで「ネタ」でしかない。そしてその本質とは、牛丼屋で怒鳴るような連中、格安チケットのくせにスッチーに高圧的な下衆、カプセルホテルに住み着く死んだ魚の目のオッサン。そういう下流な存在から、価格差の防護壁で隔離される価値だ。
ここに僕は資本主義社会の大きな歪みを感じ、耐え難いほどの虚無感に苛まれる。