実家にいる日は愛犬を散歩に連れて行く。
今年で彼も14歳になった。犬という種族は生後1年あまりで大人まで成長して、その後も僕らより早いスピードで歳を重ねていく。だから彼はもうニンゲンでいえば75歳くらいに相当し、その落ち着きぶりは僕なんかよりもうずっと貫禄が出ている。まぁミニチュアシュナウザーだから口ひげの印象が果たす役割は大きいのだけどね。
ひんやりとした夕暮れの田舎町を「ふたり」で無言で歩いていると、彼がまだ子犬だった頃や前回の帰国した時の記憶が蘇ってくる。同じように夕焼けが印象的だったあの日も、僕らはこうして同じ距離を保って一緒にこの道を歩いた。
この14年という時間を犬の視点から見たら、僕は大学生から社会人になり、うつ病で職を失って目出度くメインのお散歩担当に就任、でもしばらくしたら髭ボーボーでたまに帰ってくる旅人になり、シンガポールで再就職を果たしたらめっきり帰国しなくなり、忘れたころにまた無職になってお散歩兼マッサージ担当者として舞い戻って来た、非常に落ち着きがないフーテンの兄弟ということになる。
その間ずっと彼はこの道を夏も冬も、雨の日も風の日も変わらず毎日歩いてきた。てくてく歩いては立ち止まり、しばし迷ったような仕草の後でひとしきり道草の匂いを嗅ぎ、自分の痕跡を残してまた歩き出す。この単調で成果も進歩も明確でない作業を14年、5000日も(!)繰り返してきたのだ。
落ち着き
高校と大学の友達2人と酒を飲む機会に恵まれた。彼ら同士は直接つながりが無いものの、今も昔も僕のワガママに付き合って一緒に山に登ってくれる貴重な存在だ。
近況報告に花が咲く。
彼らの14年、僕の14年。ゾウの時間、ネズミの時間。いやいや、僕らはいちおうみんなニンゲンなので同じ14年、同じ5000日を歩んできたハズ。それでも新卒から同じ会社に真面目に務め、そりゃ苦しい時期もあれど乗り越えてきた彼らは順当に出世し、今ではそれぞれ部下もいるそうだ。
僕はというと…。それを聞いた僕は自分の落ち着きの無さ、一貫性が欠如した人生を、まるで胃に詰まらせて消化不良を起こしてみたいに思い出し、ただ独りトイレの個室に籠もって記憶を反芻するのである。これでよかったのだろうか。もとよりこれ以上出来なかった結果、今に至るのは承知の上でとっくに諦めている。でも。人生の別の可能性を他人の芝に垣間見ると、彼らが落ち着いて時間をかけて積み上げたものの大きさに圧倒され、どうしても後悔や自責の念が先に頭をもたげる。
これでよかったのか。これからどうするべきか。
歩き続ける
太陽が奥多摩の峰々に沈み、空はオレンジから紺色に、そして闇が来る。いままで目立たなかった田舎町の疎らな街灯と、うらぶれた民家から漏れる蛍光灯が眩しくなる。腐っても東京都下なのか、月ばかりが明るくて星はあまり見えない。
変わらない街、変わらない人、変わらない犬。帰国するたびに立場が変わる僕は、無駄に右往左往して結局同じ場所に辿り着いたみたいで滑稽だ。
ふと愛犬が道を逸れて一軒の平屋の前で立ち止まり、庭を覗き込んだまま頑として歩かなくなった。そうか、この家はでっかいラブラドールを飼っていたっけ。でも郵便受けに張られた狂犬病予防接種を示す「犬」シールはすべて色褪せている。
彼にとって14年という年月はニンゲンの75年にも相当する残酷な時間だ。彼がこの街にやってきたころの仲間たちは、もうこの世にあまり残っていない。彼がそれを理解しているのかはわからないけど、今でもふと思い出したように当時の友達の家を訪ねてはしばらく立ち尽くし、そして何を探していたのか忘れてしまったようにまたいつもの道を歩きだす。
来る日も来る日も。雨の日も風の日も。
結局、僕は1日1日を大切に自分の足で歩くことしか出来ないんだ。雨が降ったり風に吹かれる度に進路を変えてきた僕だけど、ペースを守ってそのまま進んでいたら人生が行き止まっていたかもしれない。確かに真っ直ぐ歩けば遠くに行ける。でも地図も標識もないこの世の中で、真っ直ぐ歩き続けない選択を僕はしたんだ。
確実に過ぎていく時間は残酷だけど、これからも日々の歩みを止めないことだけ考えよう。きっとどこかに辿り着く。
冬の澄んだ空で燃え盛る太陽の痕跡を愛犬と眺めながら、僕はふとそんなことを思った。