武蔵野市吉祥寺御殿山。
子供の頃は閑静な住宅街に住んでいることを少し鼻にかけたりしたもんだけど、大人なった今それは重圧でしかない。近所の子供らは押しなべてみんな名門私立に通い、卒業後も親のコネか知らぬがエリートコースに進んだと聞く。
俺はというと…。いわゆるお受験に失敗し、滑り止めと言うに丁度いい私立のエスカレーター校に入った。あそこまでは、まぁまだいい。でもそれから軽いイジメを受け、いや、それだけじゃない。やっぱり勉強が出来なかった。しかも自分が他人に劣ることを認めたくなかった。なにか特別な存在でありたかった。
学校にいかなくなった。俺は挑戦してまた失敗することが怖かったんだ。
最初こそ慌ててカウンセラーを呼んだりした親も、しばらくすると優秀な弟に期待するようになり、あれから俺はずっと二階の部屋の一部として過ごしてきた。私立を中退して転校した近所の公立中学からは、一度も授業に出たことないのにこれで手切れとばかりに卒業証書が郵送されてきた。
そんな俺だって今まで何もしてこなかったわけじゃない。スタジオジブリのお膝元で育ったせいかアニメに憧れて、ちょうど引きこもり始めた頃から自分でも漫画を描いている。特にネットに繋がってからは細々と深夜アニメの同人活動なんかもやって、その界隈ではちょっと名の知れた存在だ。
馬鹿にすんなよ。三年前に中堅プロダクションに原画を送ったら中卒でもアシスタントに採用されたんだ。それからずっと駆け出しのアニメーターってわけ。駆け出しの…。いったいいつまで駆け出してりゃいいのか。近所の子供、僕の記憶のなかではヤツらはいつまでも子供だ、彼らの1人は結婚して近所にマンションを買ったと母が羨望を込めて言っていた。マンションっつったってこの辺じゃ高い。俺もそういう年齢になったことを認めたくない。俺は一生働いても吉祥寺のマンションなんて買えないと認めたくない…。
深夜2時。井の頭公園のお池は墨汁を流したように真っ黒で、不自然に青白い月が水面に浮かぶ。猫に襲われないためか、中洲の噴水の周りには鴨が数羽固まって羽の中に頭を埋めて寝ている。終電で帰宅してこうして深夜の井の頭公園を独り散歩するようになってからもう三年経つ。今や弟も独立し、実家は老夫婦がひっそりと暮らしているだけだ。
居場所がない。どこにも。この公園だけは子供のころのままなのに、周りがどんどん先に進んでいく。そして歩みが遅い僕だけがここに取り残される。もう嫌だ。何もかも嫌だ。疲れた。
劣等感を抱えてこのまま消えたい。穴があったら入りたい。そしてもうずっとそこに埋まっていたい…。
時空断層の隙間
月が落ちてきた。
眩い光の線が視界を真っ二つに裂き、その隙間から扉が開くように青白い光線が溢れ出す。僕はただ呆然と立ち尽くすことしか出来ず、無抵抗で真っ白い光の洪水に飲み込まれた。
視界が全部白い。そして眩しい。まるで霧の中だ。
上下左右の感覚がない。宙に浮いているようであって、でも意識すると重力は「下」に向けて僕を引っ張っている。ちゃんと何かの上に立てている。でも足元を見てもすべてが真っ白に光り輝き床らしきものは見えない。見上げても真っ白で天井は見えないし、距離感が掴めないからまるで光り輝く深い雲に浮かんでいるみたいだ。
なんだあれは…。
地平線があるべき彼方に黄色く丸い姿が見える。どんどん大きくなる。ライオン?黄色いライオンの着ぐるみみたいなのがヒョコヒョコこっちに歩いてくるのだ。子供のころに遊園地にいたような、黄色いライオンの着ぐるみ。でも異様に小さくて小学生くらいの大きさしかない。着ぐるみは呆気にとられる僕の前で立ち止まった。まるで蛍光灯に360度囲まれたように真っ白な光の洪水の中で、視界の一点だけが黄色い。目玉焼きみたいだな、と思った。
「ししもんだよ(=^・・^=)♬」
着ぐるみが寝ぼけたような声で言った。え…?ここは…。俺はいったい…。
「ししもんだよ(=^・・^=)♬」
ここは…?!
「時空断層の隙間だよ(=^・・^=)♬」
えぇ?
「だから!時空断層の隙間だってば(=^・・^#=)! 難しいことはわかんないよ、ボクはライオンだしさ(=^・・^=)♬」
君は?
「ししもんだよ(=^・・^=)♬」
ちょっと状況が…。先週過労で倒れたアニメーターの先輩が「生死を彷徨っても走馬灯とか三途の川とか無かったわ〜」とか武勇伝のごとく語っていたけど…。俺も知らないうちに深夜の公園で倒れて、これがイマワノキワってやつなのか…。
「どうでもいいじゃん(=^・・^#=) それよりさ、今からこの店に一緒に行こう。この辺でビールが美味しいんだって(=^・・^=)♬」
最近駅前で配っているクーポンをヒラヒラさせて、黄色いライオンの着ぐるみが言う。あの世と言われても信じるに足るこの異常な空間で、その安っぽい印刷物の存在だけが浮いて見えた。それ、どうしたの?
「落ちてた(=^・・^=)♬」
どこに?
「だから!時空断層の隙間だってば(=^・・^#=) 人間のくせにライオンより馬鹿なの(=^・・^#=)」
馬鹿って言うな!俺を馬鹿にすんじゃねぇ。そうさ!俺は馬鹿だよ!学校も出てねぇし、三年も他人が描いた絵をなぞって色を塗ってるだけの馬鹿だ!
「あ、そうそう。おカネ用意しないと。この前「おカネ」ってのを持って無くてすごく怒られちゃったんだよね。ライオンだから許してもらえたけど(=^・・^;=)」
聞けよ…。吉祥寺の飲み屋なんてこんな時間じゃどこも閉まってるぜ。それとも何か、その時空断層に店があるってか。
「知り合いのタヌキがね、あぁ実はアライグマらしいんだけど、そのタヌキにそこら辺に落ちてる葉っぱを渡しとくとね、暇な時に諭吉にドロンしといてくれるん。便利なもん(=^・・^=)♬」
聞けよ…。でもそれっておカネじゃなくて葉っぱなんじゃ…。
「そうだよ(=^・・^=)♬ ただの葉っぱなのに見た目お札にするだけで喜ぶって、やっぱ人間って面白いわぁ(=^・・^=)♬」
三途の川を前にして俺はいま犯罪に巻き込まれているのか。
YONA YONA BEER WORKS 吉祥寺
次の瞬間、僕はBARのカウンター席に黄色いライオンと並んで座っていた。ハイスツールに腰をおろしたのすら意識できなかった。瞬間移動するならもっとこう、重力を失うような演出が必要なんじゃないか。
地下のBARなのか窓が1つもない。いままで一面真っ白い無限遠の空間にいたからか薄暗く感じる。でも店内は暖色系のダウンライトで落ち着いた雰囲気が醸成され、木目がハンサムなカウンターテーブルには淡く反射する電球の温かみが広がっている。視線を上げると俺が座っているカウンターの内側の壁にはビールタップがズラリと並び、どうやらそれぞれ違ったクラフトビールが出てくるらしい。さながらこのBARはクラフトビールのテーマパークだ。
と、思ったら、ライオンの黄色い手がその一本をワシっと掴み、どこから持ってきたのか1パイントの大グラスに勝手に注ぎ始めた。
おいおい!怒られるよ。
「大丈夫、大丈夫(=^・・^=)♬ この時空にはボクらしかいないからさ。まぁ元の時空でも店員さんは寝ている時間だけどね(=^・・^=)♬」
そういうと黄色いライオンはやけに小さなもう1つのグラスを取り出し、同じ銘柄のビールを手慣れた様子で注いでいる。確かに周りを見回すと僕らしかいない。しかもなんていうか開店したそのままというか、人の気配、人間の活動の痕跡を一切感じない空間だ。本当にここは実際の世界に並行して存在するようなパラレルワールドなのだろうか…。
「だからそうだって(=^・・^#=) さ、飲もうよ(=^・・^=)♬」
マジ勝手に飲んで大丈夫なのかよ…ってもう飲んでるし…。
「このビールうまっ(=^・・^=)!」
ってかお前がでっかい方を飲むんかよ…。
んんっ…!確かにこのビールは特別だ。ゴクゴクの飲むような今まで知っているビールじゃない。口に含むとまず強烈な苦味が舌を刺激する。次の瞬間、これまた経験したことないほどのホップの香りが鼻腔にこみ上げ、ため息と一緒に抜けていった。ホップってこんなハーブみたいな香りだったんだ。そして最後に舌に残るのは心が洗われたような清々しい余韻。なんだこれ…。
「美味いっしょ(=^・・^=)!やっぱクラフトビールはIPAだな(=^・・^=)♬ この店ずっと行ってみたかったんだよね(=^・・^=)♬」
絶対今日が初めてじゃないだろ…と思ったけど口にはしなかった。今までのイメージを覆すほど美味いビールを前にして細かいことはどうでも良くなっていた。ところでなんで俺だったわけ?っていうか俺、馬鹿だからこの状況がやっぱりさっぱりなんだけどさ。
「穴があったら入りたいって言ったじゃん。だから呑みに誘ったの(=^・・^=)♬」
そこの繋がりがまったくわからない。しかも心の盗聴じゃないのか。
「人生に悩んでるみたいじゃん(=^・・^=) なんかさ、もっとこうデッカイのを派手にバーンってすれば(=^・・^=)?」
あのね。人間ってのはやらなきゃいけないこと、やっていいことがキッチリカッチリ決められてるわけよ。その枠に上手にハマれないヤツは世間様に迷惑かけないように引きこもってろって話なの。もう俺は嫌だよ。満足はしてないけどさ、このまま地に足の着けて働いて。地味でもちゃんと仕事して生きるって…。そう決まってんだよ。
「じゃあこのビールどうよ(=^・・^=)?ビールと言ったらドライやラガーだって決められてるならこんなトンガッた作品は出来なかった(=^・・^=)♬ これも人間が作ったもんだよ(=^・・^=)♬」
絵とビールは…違うんだよ…。
「まじ(=^・・^=)?でもさ、中央線のガード下のあの落書き、あれ見た(=^・・^#=)?酷くねアレ。どうせ落書きするならもっとカッコよく落書けって話だよね(=^・・^#=)」
あ、あれね。絵心ないよね。時空断層からも落書きが見えるわけ?
「まあね(=^・・^=)♬」
まぁ確かに、あんなレベルでしか描けないヤツでも堂々と作品公衆に晒して…違法に…。まぁ確かに。バーンとでっかく、か。またネットの同人活動に熱入れるかな。Twitterとかで反応貰えると嬉しいんだよね。中傷もされるけど、でもやっぱみんな見てくれてんだな、みたいな。満足感があるよ。あの感覚はアシスタントで働き始めてから最近はもうしばらく無いもんな…。
「違うよ、そんなつまんないんじゃなーくーてー(=^・・^#=)」
俺の活動を全否定かよ。
「絵が得意ならさ、ガード下のあのダメな落書き、上書きしてやらない?(=^・・^=)♬ 」
はぁ?
「今夜!いまから!誰もいないし!(=^・・^=)♬」
そう言うが早いか、黄色いライオンは次のテレポーテーションの準備なのかグラスを飲み干した。どうせ俺に拒否権はないんだろう。呆気にとられながらも何か普通じゃないことが始まった高揚感が俺を満たした。
時空断層が開いたお店