文体を持たない獅獅萌と、彼の巡礼の年

いやはや、こんな長いこと文章が書けない事態に陥るとは。べつにイスラム教国で大酒吞んで拘束されたわけでも、貯金が尽きて玉川上水に入水したわけでも、はたまたフリーランスでも仕事がツラくてウツが再発したわけでもない。

ただ単純に書きたい体験、いやむしろ文章で何かを表現したいという情熱がいつの間にか僕の中に湧き出すのを止めてしまい、かろうじて底に溜まってたぶんも一滴残らず消費し尽くした感じ。

涸れ井戸ししもんである(=^・・^;=)

二年以上前にこのブログを始めた頃は、人生がツラ過ぎて心の叫びを誰かに聞いて欲しかった。なぜ自分は周りのみんなみたいに「普通」に働いて暮らして「普通」に結婚とかマイホームとかを目標に人生ゲームの駒を進められないのか。「普通」に。

全部日本のストレス社会のせいだ。

(=^・・^=)♬

それで大好きな南国シンガポールに移住して外資企業に転職したんだけど、状況は根本的には改善しなかった。相変わらず電車に乗ると過敏性腸症候群でトイレに駆け込むし、相変わらず職場や周りの人間関係を安定的に維持するのがキツい。そして何より、毎朝決められた時間に起きて、決められた場所で、決められた人々と、決められた仕事をするのが苦痛で仕方ない。

これはもはやシンガポールのせいではないし、まして日本のせいでも企業のせいでもない。他でもない僕自身が決定的に欠陥を抱えた存在なんだ。この欠陥は具体的になんだろう。僕は生きるのがツラい言い訳を探していたのではない。どうすれば毎日の苦痛を減らせるか、どうすればもっと幸福を感じて生きられるのか。そういう努力の方向性、具体的な改善策を渇望していた。

そんな折に「発達障害」というキーワードに出会って、僕の中から無尽蔵とも思えるコンテンツが湧いてきた。発達障害にまつわる書籍やネットにばらまかれた玉石混交の情報は、まさに僕が長いこと欲していた具体的かつ実践的なノウハウだった。このノウハウをひとつずつ僕の人生に当てはめて毎日の行動を変え、食べるものを変え、寝る時間も付き合う人々も躊躇せず暴力的なまでに全部変えた。傍若無人に人生を好転させていく人体実験日記。それがこのブログの出発点である。

この目論見が予想以上に成功してしまった。

ブログを始めた1年後には精神安定剤に頼らなくても寝られるようになり、定期的な運動も始めてテニスを通じて所属するコミュニティも作った。なにがそんなに効いたのかを手短に語るなら、苦手なことから徹底的に逃げて、得意なことだけにエネルギーを集中投下したことだ。そして今や。下痢をするなら電車に乗らなければいいじゃない。オフィスの人間関係が嫌なら在宅で仕事すればいいじゃない。同じ場所で同じことをするのが嫌なら、毎月別の街で別のことをすればいいじゃない。

僕の人生はもはや不満が見つからないくらい幸福なものになった。

だけど…。こうして人生をカイゼンして結果を文章にするというPDCAを徹底した結果、皮肉なことに幸福になったらブログに書く内容が枯渇してしまった。

(=^・・^=)♬

僕は文章を書く以上に、文章を読むのが好きだ。

日本に本帰国してからは海外でずっと我慢してきた古本を1冊150円くらいで大人買いしては読み漁っている。赤茶けるくらいに古い本って、よほど売れるタイトルを除き電子書籍になっていないんだよね。日本語の古本を駄菓子屋価格で買えるのは日本に住む日本人の特権なのだ。

そんな風に僕は文章が上手な人の作品をたくさん読んできただけに、誰も共感しない、内容が無いような文章を書くことに罪悪感がある。それは読んでくれる人への冒涜だし、日本語への冒涜でもあるからだ。

でも…。まぁ。

内容が無いような、いやもちろん書いていらっしゃる作家さんは大真面目に伝えたいことがあるのだろうけど、読者である僕にそれを受け止め解釈するだけの教養が備わっていないという事故は頻繁に起こる。当然、僕の脳みそのスペックが足りないっていうのは事故原因として大いにある。でも書評やAmazonのレビューを読むと、同じような不愉快な仲間たちが低能な批判を繰り広げており、最たる低脳の僕は、やっぱ意味わかんないよね!ね!と共感することになる。

じゃあ低能は読むなって話だ。なんでわざわざ批判するような本を手にとって、あまつさえ最後まで読み通し、しかもわざわざAmazonを開いたり書評欄に投書するために筆を執るのか。まるで粘着質の悪質ストーカーだ。

プロのノーベル賞候補、村上春樹氏は、そんな低脳に批判される作家さんとしてわかりやすい。

ハルキストと呼ばれる狂信的ファンがたくさんいる一方で、強烈なアンチも多い日本を代表する作家のひとり。文壇からあまりにも作風を批判されすぎて日本を脱出、そして米国ボストンに移住して代表作「ねじまき鳥クロニクル」を書き上げたというあたり、僕的に彼の人生には強く憧れる。

面白いのは、絶賛するハルキストに感想を聞いても、実は彼らが深く作品の趣旨を理解しているかというと、いささか怪しいことだ。とうぜん僕とてハルキ作品を理解できているわけじゃない。やっぱり、オチがない、伏線を撒き散らしてお片付けできない、ジャズとクラシックとウィスキーの薀蓄がウザい、登場人物がみんな面倒くさい、これ見よがしな「丁寧な暮らし」にうんざり。たまにはラーメン二郎でスープを飲み干すようなキャラが出てきてもいいじゃないか。

読中も読了後も、彼の作品に対する僕の感想は大絶賛とはならない。

(=^・・^=)♬

それでも。

仕事の集中力が途切れたり、夜が更けても眠くならないときは、なぜか無意識に春樹作品を手にとってしまう。無意識だから理由はわからないけど、疲れてなにも考えたくないのに活字を目で追いたいという散漫な欲求に、春樹作品は癒やしを与えてくれる。これはなんとなくTwitterに似ている。脈絡のない発言の羅列、Twitterの中毒性。アレだ。

春樹作品は物語の伏線に脈絡がなく、そのほとんどは最後まで読んでも回収されずに放ったらかし。その伏線放ったらかしがどのくらいヤバいかというと、例えば「ねじまき鳥クロニクル」を最後まで読んでも「ねじまき鳥」がなんなのか結局よくわからない。だから極端な話、読中に「ねじまき鳥」というキーワードを忘れてしまっても「ねじまき鳥クロニクル」を最後まで読むのにそれほど支障がない。

そんな物語を読むことに意味があるのか。

意味があるかはわからないけど、とりあえず春樹作品を読むという行為には確かな癒やし効果がある。そしてこの癒やしの正体については「職業としての小説家」というエッセイ作品のなかで村上春樹氏が直々に語っている。

オリジナルで読みやすい文体。

もう10年近く前、僕がうつ病で休職しているときに読んだ「1Q84」という作品では、主人公の青年が依頼された他人の小説をリライトするなかで物語が進んでいく。これはおそらく村上春樹氏ご本人が処女作「風の歌を聴け」を書き上げた実際の過程を物語の主人公に重ねている。とりあえず処女作を書き上げたものの「書いた人間が読んでも面白くない」と感じてしまった村上春樹氏は、エキセントリックなことに原稿用紙の日本語を英文タイプライターで英語で書き直し始めた。すると母語である日本語の贅肉のような余計な部分が文章から削ぎ落とされ、よりシンプルでオリジナルな文体が完成したのだと。

僕は今まで「伝えたいメッセージ」をきちんと伝えるためにブログを書いてきた。

そこで参考にさせていただいたのは作家の橘玲(たちばな あきら)氏の文体。彼は具体的な考えを順序立て諭すような文章を書く。それでいて説教じみたところはないし、ただのデータだけでなくご自身の体験などを織り交ぜながら読者を飽きさせない。海外に生活の拠点を移して生きづらさを克服するという具体的なメッセージがあった僕にとって、彼が書く文章は最適なロールモデルだった。

ところが日本に帰国して伝えたいメッセージが枯渇した今、僕が文章を書き続けるために必要なのは村上春樹氏のようなオリジナルで読みやすい文体を生み出すことだろう。似たような境遇の人に参考になる情報をわかりやすく伝えることから、気楽に読める取り留めもない文章への転換。

今後は積極的に海外に出て、僕の目に映る風景や現地の暮らしを読んで心地よい文章で写生していこう。そういう方向でいきたいと思っている。