大迷宮ドンムアン空港からの脱出

タイ王国、首都バンコク。ドンムアン国際空港に着陸するときはいつも、僕は飛行機の窓に張り付く。

南北から少し東に傾く角度で並行する2本の滑走路。この滑走路に挟まれるかたちで、幅わずか数百メートルの空港内に、なんと細長いゴルフ場が存在するのだ。航空事故が起きたらまっさきに巻き込まれ、または打ったボールが航空事故を起こしかねない空港の制限エリア内に、なぜわざわざゴルフ場を作ったのか。そもそも一体誰がこんな場所でゴルフをしたいのか。この王国空軍直轄のゴルフ場の存在は、ときに激しさを内包する微笑みの国の意味不明な掴みどころのなさを体現している。

そしてドンムアンは(おそらく)不本意ながらも北朝鮮と負の繋がりが深い空港だ。1987年、その大韓航空機はドンムアン空港に着陸する前に北朝鮮の工作員により空中爆破された。そのトラウマからか、いまでも大韓航空はバンコクの成田的な存在であるスワンナプーム国際空港を使い、ドンムアンには乗り入れていない。そして2009年にも北朝鮮から飛来した輸送機から、まさに密輸される真っ最中のミサイル兵器が発見されている。この事件で発覚したのはおそらく氷山の一角でしかなく、歴史を通じてこの空港は世界の裏社会から散発的に利用されていることを伺わせる。

まぁそんなことはわりかしどうでもよく、僕が乗ったシンガポールのLCCはゴルフ場をかすめ、王国空軍の将校様が放ったOB弾に撃ち落とされることもなく、定刻通りにドンムアン空港に着陸した。

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ドンムアン空港はなんとなく寂れている。まず照明が暗い。施設の施工がいい加減。小奇麗にしているつもりでもあからさまにボロが出ている。

運悪くこの空港でトランジットするときは、やる気なさそうな職員に連れられてみんなでゾロゾロと次のゲートへ向かわなくてはならない。ここの迷宮は人類の知性をはるかに凌駕しており、そんな異空間に無垢な外国人を放つと道中誰かがうっかり次元断層の隙間に迷い込んでしまうのだろう。さらに空港から出て市内までの交通を調べようにも、空港のWIFIにつなげるのにネットが必要というクソみたいな仕組みだ。

とは言え。

シンガポールで会社務めしていたときの忙しない休暇と違い、僕はタイになかば住むためにやってきた。予定調和的沈没である。帰りの日程が決まっているわけでもなし、ここはタイで暮らす人々のリズムにどっぷりと染まることが楽しむ秘訣だ。

それならば。

空港からタクシーやシャトルバスに乗るのはもったいない。安かろう遅かろう暑かろうが醍醐味の旅をするならば、地元のローカル電車こそが至高の贅沢。僕はここから20キロ離れたバンコクの都心部までわざわざ1時間かけて電車で移動することにした。

ところが空港に隣接しているハズの空港駅まで簡単にはたどり着けないのである。まず、駅を示す案内板がほとんどない。確かにドンムアン空港からバンコク市内まで電車に乗ろうという酔狂は実際ほとんどいない。みんなタクシーかホテルに直行してくれる便利なシャトルバスに飛び乗って安寧な旅に出る。これは事実だ。だとしても鉄道駅への道順くらい教えてくれたっていいじゃないか。

そうだ。誰かに道を聞こう。

しかし極めつけは、観光案内所の人に英語が皆目通じない。国際空港に設置された観光案内所にも関わらず。もしかして掃除のおじちゃんの休憩所にでも間違って凸ってしまったのか。そう思ったけど、看板には間違いなく英語でここはタイ王国観光庁の観光案内所だと書いてある。8年前なら僕の英語がクソなせいだろうと無理矢理納得しただろう。でもいろんな国を英語で渡り歩き、あまつさえ英語で仕事までしている今は違う。

ここの公務員様がダメなのである。

公務員という仕事はどこの国でもある程度人気があり、就職戦線にもそれなりに異常がある。具体的には汚職や親族関係のコネがはびこっているのだ。すると警察官は公営ヤクザになり、省庁は公式に公然と腐敗することになる。困ったことだ。

なにしろ、そういうグダグダな国の方が男ひとりグダグダ暮らすのに向いているんだから。本当に困ったことだ。

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困っても男を頼りにしてはいけない。これはタイで幸福に暮らすための絶対正義のメソッドである。たぶん今すぐメモしておいたほうが良い。タイで困ったときに頼るべきは、利発そうな顔の女性である。どこかの制服など着ていたら申し分ない。こちらが適切な礼儀を怠らなければ、きっと彼女は必要な情報と手助けを与えてくれるに違いない。

そう思って周りを見渡すと、なんとイミグレゲートの手前でついさっき僕の書類を確認した空港職員のお姉さんが視界にいらっしゃった。彼女はちょうど昼飯の包を下げて休憩に向かうところのようだ。これ幸い。

「ああ、あなた。さっきの人。迷ったの?」「え?駅?」「本当にあんな電車に乗るの?」「そう。わかった。ついてきて」

タイで利発そうな顔をして制服まで着ている女性は、本当に利発でおまけに親切なのである。

彼女の後ろにくっついて、古い蛍光灯が点滅しているうらぶれた非常階段の入り口をくぐった。そして人がすれ違うのがやっとの狭い階段を登り、薄暗い渡り廊下を抜け…と思ったら、その途中の目立たない非常階段から外に出た。こんなの看板も無しにわかるわけがない。

「ここに駅って書いてあるのよ」

いや、それ、タイ語だから…。とにかくその親切な空港職員の女性に丁寧にお礼を言い、野良犬が闊歩するプラットフォームでバンコク都心までのきっぷを買った。70円だった。