ジャンクフードが無性に食べたくなる瞬間というのは、21世紀を生きる人類に共通した依存症だ。空腹にビールを流し込んだときとか、疲れて1人で夜の街を歩いているときとか。でも僕がそういう時に欲するのはハンバーガーやフライドポテトではなく、日本の茶色いカレーなのである。
幸いなことに異国にも日本式のカレーを好む人たちが一定数いらっしゃるらしく、シンガポールのホーカーはもちろん、北インドのクソ田舎にあった日本食材店(と言う名の中華食材店、ちなみにオーナーは韓国人)にさえ、バーモントカレーのルーが置いてあったくらいだ。
そして今、この瞬間、僕はタイ・バンコクで日本式の茶色いカレーを欲してる!すごく欲している!よく考えると元祖タイカレーの聖地でわざわざ日本式を求めるなど失礼千万なんですけども。でもそれでもシャレオツなマッサマンカレーには忖度しない頑固な僕である。
とりあえず目についたショッピングモールに駆け込んだ。都合よくカレーの神が微笑んで、CoCo壱番屋なんかがテナントで入って…いないのである。こういう肝心な時に限ってカレーの神様は酔っ払ってるのだ。まぁ酸っぱい葡萄的なことを言えば、どうせココイチがあったところで海外では中級ファミレス展開だ。男一人でふらり入るような雰囲気とはちょっと違う。
それでも僕はカレーを諦めない。
次に向かったのは同じショッピングモールの4階にあるフードコート。こうなれば現地風にアレンジされた日式カレーでも良い。茶色く煮込まれたコクがあるソースにとんかつがドンと乗ったメニューは、見た目のインパクトもあり意外とローカライズされた飯屋でもみかけることがある。
ビンゴ!これはビンゴ!何やらタイ風に辛くアレンジされた中華っぽいメニューを扱うストールに、見事カツカレーの写真が掲示されていた。139バーツ、500円でお釣りがくる。安い!ここに決まりだ。
タイでカツカレーを注文できなかった話
さて、カツカレーである。
僕はストールに掲示されたカツカレーの写真を指差して、目についた店員さんにCan I have this?と英語で言った。ポケモンでいえばゴーリキーみたいな店員さんだ。僕は嫌味すぎない程度に口角を上げて、目を細めた。それは今までの旅人人生で開発した僕のもっとも無垢な表情で、言葉はしゃべれずとも自分は人畜無害であると訴えかける。
それなのに。
厨房とレジ兼務らしいゴーリキー青年は、かったるそうに意味がわからないという仕草をし、僕がもう一度注文を繰り返すと、ややあってから「あぁ」とばかりに立ち上がって手元の紙ペラを僕に見せた。すべてタイ語で書いてある。その後に彼がタイ語で言っていたのは、今はカレーをやってない、この一覧のメニューから選んでくれ、たぶんそんなことだ。
東南アジアで暮らしていると、店頭で一番目立つメニューが客寄せパンダなことは日常茶飯事。そもそも取り扱ってすらいないか、または年中売り切れで売るつもりが完全にない。
でもここは彼らの国。よそ者たる僕がゴニョゴニョいう資格はない。ガイジンは嫌なら出て行けって話だ。
そう思い直して当たりを見回すと、厨房の隣に何故か数品だけ食品サンプル的な模型がホコリを被っている。しかもなんと!そのひとつはフォーファンじゃないか!米粉でできた平打麺を高火力でサッと炒め、そこに中華丼のようにとろみのある餡をかける。具はあからさまに冷凍食品の野菜っぽいけど(むきエビ、人参キューブ、グリーンピース、ベビーコーン)麺はまさしく僕がシンガポールでこよなく愛したフォーファンである。
食品サンプルを指さしたら流石に一撃で注文が通った。
めでたしめでたし。ありがとうゴーリキー。
と、ならないのがタイである。この国では実際にモノを手に入れるまで油断は出来ない。やっぱりというか、当然というか。注文を聞いたゴーリキーは、なんとアツアツに熱した中華鍋に油も敷かずに麺を放り込んだ。当然ものすごい勢いで焦げ付く。黒い煙が上がる。でも火を弱めることも油を投入することもなく、ゴッツンゴッツン焦げた麺を剥がそうとする。哀れな平打ち米麺はあっという間に炭化し、変わり果てた姿になった。
素人か。
そう、このゴーリキー青年は料理に関して本当にズブの素人らしい。見かねた先輩カイリキーが奥からやってきて、黒焦げの鍋を撤収し、不機嫌そうに指導しながら作り直し始めた。それなら最初からカイリキーが作ってくれよ…。
ところがここはタイである。まことに困ったことに、実のところこのカイリキーも素人なのだ。
先輩カイリキーは、弟子を反面教師にしたのかお玉3杯分もの油を中華鍋に投入し、そこに麺を放り込んだ。それじゃ炒め物ではなく揚げ物だ。激しく沸騰する油の中で、麺はあっという間にボロ雑巾みたいな茶色いカタマリになり果てた。カイリキーはそれを得意げに箸でまな板の上につまみ上げると、哀れな麺の残骸を包丁で輪切りにした。彼が包丁を入れるたびにカタマリから茶色い油がグチュッ、グチュッと染み出し、ずぶぬれの子猫を拾ってきたときみたいに、まな板の上には油たまりが出来た。
結局。たっぷり15分もかかって出てきたのは、フォーファンとも、店先の食品サンプルとも似ても似つかない、哀れな生ゴミだった。致命的に不味そうだし、実際に噛めば噛むほど油が出てきてた。今どき小学校の調理実習だってもっとマトモなものを作るだろう。
向上心がない
業務スキルというのは研修や座学だけで身につくものではない。
「それなり」にちゃんとやっていれば「それなり」の社員にはなれるかもしれない。でもそこから先、自信を持って業界を渡り歩ける人材になるには、給料に見合わない努力をする向上心が不可欠だ。
その給料に見合わない頑張りというのは、日本なら顧客や上司に付き合って遅くまで飲み歩いたり、睡眠時間を犠牲にして満員電車に揺られることも含まれる。理不尽であろうが現実問題、職場の人間関係を良好に保つことはキャリアになる仕事を任されたり、より責任あるポジションに昇格するための投資なのだから。
例えばこう考えたらどうだろう。いつかは自分の店を持ってやるという情熱を胸にラーメン屋で働いているなら、出汁取り、麺振り、接客、会計、店の雑事でさえも、自分ならもっと効率化できるななどと現場でしか得られない発見を得られる。すべてが夢につながる成長の機会なのだ。
でもその一方で、同じラーメン屋の仕事を時給900円もらうためだけにやっているなら。どうせ時給が変わらないのだから、クビにならない極限まで手を抜くのが合理的になる。
やりがい搾取と言えばそれまでだけど、胸を張って業界で働くためには給料を度返しの向上心が不可欠なのだ。
僕はサラリーマンをしているときに仕事に対する向上心を持てなかった。知らない技術を自分から勉強せず、業務時間外に会社の人と会うことを拒否し、オフィスでは5分に1回は時計を眺め、家に帰ることだけ考えて過ごした。
僕はゴーリキーとカイリキーの働きっぷりを、会社勤めしていたときの自分に重ねた。そして僕の存在や、僕が出した成果物に、周りの人達がどうに感じたかを考えた。
やっつけ仕事。
これは生き方の問題だ。仕事や周りに文句を言いながら、不快な存在として過ごしたいなら一生をこのままでいい。でも胸を張れる自信に満ちた人生を手に入れるなら、向上心をどこかから掘り起こし、今からでも少しずつ磨いていかなくてはいけない。