僕が今月暮らしているタイ王国ノンタブリー県は、東京で言えば埼玉みたいな首都付属のベッドタウンである。ただ埼玉がクレヨンしんちゃんと素行の悪いサッカーサポーターでしか知名度がないのに対し、バンコク付属ノンタブリー県は高級ドリアンの産地として相応の繁栄を見せる。
タイといえば幹線道路に漫然と設置されている王様アーチの印象が強烈だ。問題はあれど一応タイは民主主義国家なのにも関わらず、さる北の独裁者さえも恐縮しかねないレベルでここには高貴なる王族の輝かしい御影が刻まれる。ところがここノンタブリー県では、王様カラーと同じ黄色なのをいいことに、道路のアーチにさりげなくドリアンが奉られることも。
日本の香川がうどん県なら、タイのノンタブリーはドリアン県なのである。
そんなバンコクの埼玉にあって、ひときわ異彩を放つのがチャオプラヤ川の中州に栄えた集落、クレット島だ。元々はモン族という少数民族が暮らしていた土地らしいけど、今ではタイ人の国内旅行客にも人気のエリアになっている。
ポンポン船でクレット島へ
クレット島は名実共に島である。海岸線から30kmは離れた内陸に島があるのは不思議な感覚だけど、周囲を蛇行したチャオプラヤー川に囲まれた中洲なので渡し船でないと上陸できない。
とはいえ川幅は狭いところで100mも無いんじゃないか。実際、渡し船に乗っているのはものの3分。運賃は2バーツ、7円。7円とか。いくら物価が安いタイだって、もう船賃を取る意味を疑うレベルに安い。
週末になるとクレット島へはかなりの往来があり、今日みたいによく晴れた日曜日には2隻のポンポン船でピストン輸送をするくらいの賑わいを見せる。乗客はほとんどタイ人だ。外国人はせいぜいタイ女性とカップルの白人がチラホラという感じ。
チャオプラヤー川独特の褐色に濁った水の上を、ディズニー・シーにありそうなレトロなポンポン船がゆっくりと滑っていく。水面には金魚鉢に浮かんでいるよくある浮草の、モンスターレベルに巨大に育ってしまったやつが、これまたゆっくりと河口に向かって流れていく。この浮草は不思議だ。原理的に絶対に上流に遡ることが出来ないハズなのに、もう絶え間なくでっかいカタマリが次から次へ流れてくる。桃太郎もびっくりだ。チャオプラヤー川の上流には浮草工場でもあるのだろうか。
渡し船を降りると、ドデカい素焼きのオブジェがお出迎え。この島は陶芸品が特産なのだ。ドリアン県から焼き物島へ、7円で100mのワープ。
でもさ、陶芸品って…。香台とかお茶碗みたいなのって冷静に考えると使いどころがわからない。お香は焚かないしお茶碗はもうある。何より壊さずに持って帰るのがダルい。
まぁ他にもクレット島といえばOTOPマーケットがある。一見、浅草寺の仲見世みたいなお土産街なのかと思いきや、OTOPとはタイ各地の特産品を集めたアンテナショップ街であるらしい。このようにクレット島とは、タイ人によるタイ人のための生活に根差した観光地なのだ。地蔵通り商店街的な?
でもぶっちゃけ僕にはオーガニック石鹸や民芸品なんてどうでもいい。目的はもっぱらビールだ。それも、この島で密造されているらしい絶品の脱法ビールである。ビール!
絶品の脱法ビール
ポンポン船を降りた観光客は船着場から右へ流れていく。例のOTOP市場とかチャオプラヤー川の侵食で傾いた有難い仏塔とか、主要などうでもいい名所はみんな右側にあるのだ。
でも僕はビールを求めて左へ行く。なにしろこの島にはBARがその一箇所しかないのだから。
完全に観光地化されて人がごった返している右側と違い、左側は生活感溢れる入り組んだ裏路地になっている。そこに、バブル期の伊豆のごとく、自意識過剰なくらいのこだわりで手芸やインテリアが配置され、古びた壁には気の利いたペイントが施されている。そうかと思えば路地脇に勝手に生えてきてしまったらしいバナナがたわわな実をつけ、時計草の花が咲き、要所にはポツポツとコーヒーを出す洒落た店が。
そんな異世界感のある裏路地の炎天下を進むこと20分あまり。闇のクラフトビールが飲めるというChit Beerは、あっけないくらい堂々とタイの禁酒時間に営業していた。
調べたところ、ここChit Beer Barは正式な酒造免許を受けていない闇酒場であるらしい。どうせ違法ならトコトンなのか、タイで厳格に守られる酒類販売禁止時間さえもここでは関係ない。
レジがない。注文伝票もない。酒を客に提供した事実は徹底的に残さないのだろう。台所で料理していたら偶然ビールが出来ちゃって、そうしたらこれまた偶然に人やって来て運良くお金を置いていった、という体裁なのかもしれない。土日しか営業しないのも、公務員である警察が取り締まりにくいからなんじゃないかと勘ぐる。
チャオプラヤー川にせり出した高床式の店内にはなかなかの風情がある。水上の古民家を改装したような(実際そうなんだろう)簡素なもので、そっと歩かないと踏み抜いてしまいそうな薄くて穴だらけの床板の隙間からは、チャオプラヤー川の濁った水面とおこぼれを狙っているのか小魚まで見える。
さっきのポンポン船とはうって変わり、ここの客層は圧倒的に白人が多い。だから音楽やテーブルの配置も白人好みのテラスBARのそれである。
僕は8種類のビールタップが並んだカウンターでキンキンに冷えたグラスを受け取り、黒板にチョークで書かれた値段を現金で店員のお兄ちゃんに渡す。英語が通じる。最初の1杯はこのBARの自家製というIPAにした。苦味と風味の強いアルコール強めの逸品。想像以上に美味い。っていうか、これはもうどこに出しても恥ずかしくない、完全無欠の理想に近いIPAじゃないか。どっしりと麦のコクと香りが残っていて、それでいてスッキリしたホップの香りが鼻に抜ける。
これがしかもバンコク繁華街のクラフトビールの1/3くらいの値段なのだ。
残念なタイのビール事情
チャオプラヤー川にせり出したテーブル席の右手では、改装前は民家の台所だったであろうスペースで今まさにクラフトビールが作られているところだった。麦芽を煮出している寸胴鍋が白い湯気を上げ、その隣の小ぶりのタンクでは酵母が糖をエチルアルコールに代謝している真っ最中。文字通り完全に手作りのビールなのだ。
このクオリティのビールを作れるメーカーが、なぜ路線バスと渡し船を乗り継ぎ炎天下を歩いてようやくたどり着ける辺境で、違法操業を強いられているのか。僕は結局その日用意されていた8種類のうち3つのビールを飲んだのだけど、その味はどれも日本なら品評会で賞をとって話題になり、コンビニとコラボして製品化しそうなレベルだった。
タイは階級社会であり、そういう国には汚職がはびこる。特権階級に富が集中する一方、持たぬ者が報われるには並大抵の努力ではかなわない。タイで酒造免許を取得するには非現実的に厳しい条件が数多く設定されている。それはおそらく既得権益である大手メーカーが脅かされないように設定された参入障壁である。
またこのような状況が改善されない背景として、タイが飲酒を良しとしない仏教国であることも無視できない。
なんにせよ、この理不尽な法律のおかげで、この国にはチャーンやシンハのような茶色い炭酸水しか選択肢がない。タイ国内で世界に通用するビールを作ることが出来ない職人は、海外に流出し、海外で作ったビールをタイに逆輸入する道を選ぶ。その結果、現地とタイのダブル酒税、そして輸入関税まで課され、タイの職人が作った世界レベルのビールはタイの庶民が気軽に飲めるものではなくなってしまう。
そんな逆風をなんのその、禁酒時間に営業するChit Beer。僕はここで微笑みの国に潜在的に宿ったビール魂を見た。
Chit Beer
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土日のみ営業、12時から21時。バンコクの中心地から渡し船が出るWat Sanam Nuea寺院まで、タクシーでたぶん1時間くらい。頑張れば路線バスでも行ける。対岸に渡ったら左の路地を歩くこと20分程度。