理不尽なしがらみに適応せずツラい人生をお手軽にリセット

日本で通り魔事件が頻発している。登戸は日本で会社員をしていたときの僕の通勤経路だ。南武線で過敏性大腸炎を発動してしまい、駅のトイレに駆け込んだこと数知れず。あんな平凡な住宅街で凄惨な事件が起きるとは。

いまからもう20年近く前になるけど、附属池田小事件がエポックを画する出来事だったように思う。自分や家族という至極個人的な問題から、なぜか全く無関係の不特定多数を犠牲にする。秋葉原通り魔事件もそうだ。

あれ以降「死刑になりたかった」とかいう意味不明な動機を聞いても驚かなくなり、「無敵の人」という凶悪犯を一括りにする安易な言葉もうまれた。

「無敵の人」の正体は明日の僕かもしれないし、あなたかもしれない。

現在僕がグダグダ暮らしている東南アジア一帯の国々でも散発的に似たような事件が起こる。でもそれはテロと呼ばれ、主にイスラム過激派による無差別事件や、イスラム教徒に対する無差別事件が多い。どんなに理解不能で自己中心的あれど、その凶行には目的があるのだ。

昨今の通り魔が「無敵の人」かどうかはわからない。でも「人を傷つけてはいけない」「その場合然るべき刑罰に処される」という社会の規範が、最早犯罪に対する抑止力になっていない。

いったいどうしたら良いのだろう。

社会のしがらみに閉じ込める?

こういう事件が起こると、たいてい孤立を防ごうという議論が持ち上がる。

無職だから罪を犯しても失う社会的信用なんて元々持っていない。社会的に孤立しているから罪を犯しても悲しませる大切な人が元々いない。生きていてもツラいだけだから極刑になっても構わない。

本当に犯人がこのように証言するケースはあれど、全ての通り魔事件、無差別事件がこういった動機で行われるわけじゃない。そして事件の経緯を調べると、往々にして犯人は孤立してないのだ。家族もいれば「優しい子だったのに信じられない」とかいい加減なコメントを垂れる知人もいる。

ただ、そこに問題を抱え、それを解決できず、鬱積した感情を赤の他人の命を奪うことに向けてしまう。犯人も、その家族も、その周辺の人々も、結果的に止められなかったのだ。

孤立を防ぐ…。

無差別事件の犯人、そしてその犯人を生んだ家族を、もっと大きなコミュニティ、たとえば地域社会や行政がつくるコミュニティに包摂したとする。でも僕はそれで別の問題が生まれるだけだと考えてしまう。いわば問題を解決せずそのままにして、より強固な社会のしがらみに閉じ込めようというわけだ。社会のしがらみのなかで上手く泳げずに事件を起こす人物を、より強固なしがらみで縛ったところで良い結果に繋がる気がしない。

明らかに問題があって破綻しそうな状況にまでなっても、なおもその現実に押し込めてその場でなんとかしろというやり方がまかり通っているのが本質だろう。

例えばウツ病になって病院に行くと、気分が良くなるお薬を貰える。ようはクスリに頼ってでも現状維持しろってことだ。でもおかしくないか。産まれながらにうつ病な人なんていない。産まれながらの犯罪者もいない。その後身をおいた環境が原因なのだ。やっていること、一緒にいる人、または住んでいる土地。まわりを見渡せば明らかな原因が見つかるのに、それを回避する方向じゃなく、困難に適応する道ばかりが推奨される。

僕はこれが社会の歪を生んでいると思う。問題をそのまま社会のしがらみで何重にくるんでも、問題は問題であり続け、いつか破綻する。

自分の人生を改善しやすい社会

通り魔や無差別事件のニュースをみるたびに、自分が被害者になる心配よりも、いつの日か僕自身が同じような事件を起こさないか不安になる。当然、僕は社会に不満はあれど、いままで誰かの命を奪いたいなどと考えたことは一度もない。

でも。思い通りにならないこの社会に打ちのめされたことがある僕としては、無差別犯と僕の違いはほんの些細な反応の差異なんじゃないかと感じるのだ。

  • 人生思い通りにならない → ツラい → 自分が消えてなくなりたい…
  • 人生思い通りにならない → ツラい → みんな消えろ!

これだけ。ほんのこれだけの違いなんじゃないか。僕自身、いわゆる「無敵の人」になった可能性があるし、これから絶対にならないと証明することもできない。

自分に生きてる価値がないと思うなら

定期的にランダムな市民が、ランダムな無差別犯罪の犠牲に倒れる。歪んだ社会。こんな不幸を二度と繰り返さないためには、誰でも「この人生は嫌だ」と思った時にお手軽に「これじゃない人生」に漕ぎ出せるような仕組み、考え方、支援制度が必要だ。そりゃもう、コンビニに行くくらいお手軽に今日から「プランBの人生」を生きるような。

人生コケた時のプランBを育てる3つのスキル

いまの僕が、今のまま生きられれば。僕が無敵の人になる可能性はないだろう。なぜなら僕は人生に満足できなくなったときに、自分の意思と行動で未来を自由に変えられることを知っているからだ。他人の行動を変えることは難しい。でも自分の行動は今すぐに自分だけの意思で如何様にも変えられる。

行きたくない場所(学校や会社かもしれない)、一緒にいたくない人(家族や上司かもしれない)、やりたくない仕事(パワハラ・セクハラ・ブラック企業?)。そういう自分に合わないと思った場所・人・仕事からはいまこの瞬間から、永遠におさらばすることができる。

いままで積み上げてきた人生、いままで固執してきた「個性」、いままで耐えてきた人間関係。

そういうのを自分のアイデンティティごとマルっと全部捨てて、まっさらなプランBの人生に切り替える事ができるのだ。いまこの瞬間から。

人生追い詰められてもお手軽に生まれ変われる。物理的に死ぬのは無駄。

当然、プランBが上手く機能するとは限らない。それでも誰かの命を奪うよりは確実に平和なことだし、なにしろプランBに失敗したらプランCを発動するだけのことだ。

自分の人生「だけ」は自分の好きなようにできる。どうせ自由にできるのなら、自分も周りの人達も、幸福になるような選択をしたいものである。