引きこもりの人が絡む事件が連鎖しているためか、ここ数日このブログのアクセスが増えている。よくも悪くも、うまく働けない人に注目が集まってるんだろうな笑
当然、該当する事件のニュースも追っている。そこで注目するのは記事本文じゃなく、ついているコメントだ。辛辣なコメントの中に埋もれがちな、同じような境遇のうまく働けない人たちの不安な声。境遇に対する憂いや憤り。
ここから僕は気づきを得られる。
その中で「やりたい仕事が見つからない」と言う声がちらほらあって残念に思う。根本的に間違っているからだ。
仕事がめっちゃデキできる専門職や起業家ならいざ知らず、いやむしろそこそこ仕事がデキるにしても、やりたいから仕事している人なんてそんないないだろう。とりあえず生きるため、家族を養うため、本当はやりたくないけど「とりあえずデキること」を必死に頑張っているのだ。
その「必死に頑張ってデキること」がないんだ!
コメント主からそう言われてしまいそうだ。でも「必死に頑張ってデキること」は自分だけの努力で作れる。それを「やりたい仕事」と感情を混ぜて曖昧に考えるから、その具体的な職業が見えなくなり八方塞がりになってしまう。
仕事をするのにオンリーワンになる必要はない。ましてナンバーワンはオーバースペックである。誰にでも出来るような仕事を、誰にでも出来るようにすれば良いんだ。
今日は「やりたい仕事」にこだわるのはモッタイナイという話を書く。
そこそこデキることが充分仕事になる
橘玲氏の本「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」に面白いことが書いてあった。ドラえもんの例え話だ。
司法試験に合格して法律事務所を開業したデキスギくんは、事務員としてのび太を雇っている。デキスギ君は全てに優秀で、のび太がデキスギより秀でる業務はただのひとつもない。のび太の本業である事務作業でさえ、デキスギが自分でやった方がのび太より正確に速く出来る。
じゃあなぜデキスギはのび太を雇っているのだろう。(本書のたとえ話では「夢に挫折したしずかちゃん」なのだけど、ここではわかりやすくのび太とする)
それは、デキスギは事務作業もデキるけど、デキスギにしか出来ない付加価値の高い法律業務に専念した方が稼げるからだ。優秀なデキスギは「やりたい仕事」を選べる人なのだ。
当然のび太は仕事を選べない。デキスギが指示した事務作業しか出来ない。しかもデキスギに劣る能率で。それでものび太は仕事を得て暮らしていける。
そしてこの世で働いている人たちのほとんどは、多かれ少なかれのび太的な労働者なんだ。
それなのに。のび太が仕事を選びはじめたら。やりたい仕事しかしないと言いだしたら。もうそんな無能なワガママに誰も給料を払わない。
仕事を選べるスペシャリストじゃないならば、自分がそこそこデキることを言われたままに仕事にするしかない。むしろ凡人たる僕のようなのび太にとっては、それこそが仕事なのである。
のび太の強み
「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」で、このドラえもんの例え話には続きがある。
デキスギは賢いので、事務作業を給料が安い中国に外注してしまうのだ。するとのび太は職を失い、デキスギは浮いたのび太の給料分だけ多く稼ぐ事ができる。
それがグローバル化であり、経済的な合理性である。本書はそういう流れで展開していく。
本当にそうだろうか。
例えば法律事務所というのは、感情が伴う泥臭い商売だ。そりゃ裁判そのものは厳格なルールベースで動いているにしても、こと法律事務所のドアを叩く日本人の多くは緊張して慎重になる。この時に大切なのは明文化が難しい人間どおしの泥臭い信頼関係だ。
このようなビジネスシーンでは、まだまだ日本育ちの日本人であることが決定的な強みになる。いくら中国の事務員が優秀で、もしかしたら日本語でデキスギとやりとり出来るかもしれない。
それでも。もし作成を外注した書類に、ただの一点でも外国人が書いたと思われる文法ミスが見つかったら。日本の商習慣を知らない事が明らかな表現を使ってしまったら。
一撃で顧客の信頼を損ねてしまうのが、21世紀でも鎖国を続ける日本である。だから中国人よりも給料が高く、中国人よりも仕事がデキないのび太にも、まだまだ日本国内においては優位性がある。
ただ、それは時間の問題だ。
のび太は自己研鑽しないと、いずれはデキスギの事務所で働き続けられないだろう。ただの事務だけじゃなく、直接顧客対応したり、より専門的なデキスギの業務をアシストしたり。そういう専門性を高めていかなければ、遠くない将来にのび太の仕事は中国に外注されてしまうだろう。
僕がシンガポールでやっていた仕事も、まさにそういう経緯で外注され、今は中国人が僕の半分以下の給料でやっている。そして当然、鎖国日本の泥臭さに対応できず、上手く廻ってないようだ。
ざまぁみろクソが。
デキないことから徹底的に逃げる
やりたい仕事にこだわらず、そこそこデキることを仕事にする。オンリーワンにもナンバーワンにもならなくて良い。誰でもできるようなことを、誰でも出来るようにすれば良いんだ。
それが仕事なんだ。
でもマジにもうカラッキシ仕事がデキず、日本市場に特化した業務でさえ中国人に奪われてしまう僕みたいなのび太には、もうひとつ大切な生存戦略がある。
出来ない能力から、徹底的に逃げることだ。
困難から逃げる事は馬鹿にされ批判されるけど、徹底的に逃げるって結構大変だ。
僕は通勤や職場の人間関係みたいな、サラリーマンなら当然耐えるべき、本業とは関係ないアレやコレやに耐えられなかった。あと、一箇所に定住して、同じ人と、同じことを、毎日毎日何年も…永遠にやるのがツラくてしょうがなかった。
だからシンガポールでクビになってからフリーランサーになり、毎月違う国の違う街をウロウロしている。
ところが駆け出しのフリーランサーは、そもそもギリギリ食べていくのだって難しい。シンガポールの会社勤めを辞めてもうすぐ1年になるけど、正直言ってなんとか生き延びていることに僕自身が一番驚いている。
でもそのために捨てたものは多い。っていうか、フリーランスとして生きること以外は全て犠牲にしたと言っても良い。
逃げたのだ。
まず、自営業ビザやフリーランスビザが取れるほどは稼げない。そもそも稼ぎから税金や社会保険料を引かれたら食べていけない。
だから「住む」ということから逃げた。インターネットで仕事してどこにも定住しなければ「永遠の旅行者」として就労ビザもいらないし、どこにも税金や社会保険料を納めなくて良い。完全にどこの国でも合法。稼いだカネは全額手取りだ。
そしてその浮いたカネと時間とエネルギーを、のび太に必要な自己研鑽に使うのである。より専門的な業務ができるようになるために。そして二度と自分より単価の安い中国人に仕事を奪われぬように。
やりたい仕事にこだわらず、自分がそこそこデキることを仕事にする。オンリーワンにもナンバーワンにもならなくて良い。誰でもできるようなことを、誰でも出来るようにすれば良い。
それが仕事なんだ。
でもその仕事を長くやり続けるには、より安い給料で仕事を奪いにくる外国人や参入者に勝ち続けないといけない。勝つためには自己研鑽が欠かせない。
そのヤル気と時間と体力は、苦手から徹底的に逃げることで捻出するといい。