インターネットで自己学習できるなら学校の存在意義とは?

途上国の教育について面白いTED動画を見た。

もう20年近く前の実験なんだけど、ある教育学者がインドのスラム街にパソコンを設置して、高速インターネットに繋げた状態で放置したのだそうな。当時の記録ビデオに映るブラウン管ディスプレイが懐かしい。20年前にしかもスラム街で常時接続のパソコンが使える状況というのは、まるでUFOが降りてきたような衝撃だったかもしれない。

この実験のミソは、そのパソコンを地上1mの高さの路上に設置したところ。小学生くらいの年齢のストリートチルドレンに使ってもらうことを意図しているわけだ。高さ1mだと大人の視界に入らないし、使おうと思っても腰が痛みそう。実際、スラムの壁に埋め込まれたパソコンの前には子供たちが群がって、ああでもないこうでもないと試行錯誤を始めた。

この実験の成果は目覚ましく、パソコンという存在すら知らなかったスラム街の子供たちが、大人から教わることもなく非常に短期間でパソコンの操作を覚え、さらにもっと小さい子に自らブラウジングを教えるまでになった。全く読み書きできない英語設定のパソコンにもかかわらず。

同じ実験の対象になったインドの別の地域の子供たちは、パソコンを駆使してネットを徘徊し、学校の宿題をこなすようになった。担任の先生も成績の伸びに驚きを隠さないほど笑 でもそうやって国や地域を拡大し、単純なパソコン操作だけでなくちゃんとした学問にまで範囲を広げると、このネットを駆使したグループ学習で効果を得るのにひと工夫必要になってくる。

褒めてくれる人の存在だ。

英語がまったくわからないインドの子供たちに英語で書かれた分子生物学の教材データ入りパソコンを渡したものの、思うような成績が出なかった。そこで、勉強している自分を無条件に褒めて感激してくれる「お婆ちゃん役」を付けたのだ。とくに有益なことは教えてくれないけど、あら何をやっているの?はぁスゴいわねぇ~。もっとやってみせて!みたいに後押しする声をかけてもらえるわけだ。

すると。その後なんと数ヶ月のうちに、生物学の専門教師がいる都会のエリート校と遜色ない成績にまで伸びたという。

すなわち、

  • インターネット
  • 一緒に取り組む仲間
  • ただ応援してくれる大人

この三点セットさえあれば、子供は学校や教師に頼らずかなり高いレベルの自己学習できる可能性が示された。これは有能な教師が行きたがらず立派な学校も作れない、紛争地帯や貧困地域の教育にとって大きな光だ。

スマホ時代も変わらぬ途上国

ここはフィリピンの大都市郊外。あまり裕福とは言えないエリアで、それはつまりどこにでもある普通のフィリピンの街ということだ。

僕が食料を買いに行く米屋では、朝から晩まで小学校6年生くらいの少年が店番している。どう考えても学校に行っていない。ちなみにその米屋の向かいには4階建ての立派な公立小学校が建っている。公立校は寄付金や教材費など完全ではないものの、基本は無料で通えるという。交通費がかさむならまだしも、ただ道を渡れば学校に行けるのに…。

少年の湿気た米屋は、見た目相応にぜんぜん繁盛していない。客がいるのを見たことがない。しかも母親らしき女性が裏でずっと、本当に「ずっと」テレビを見ている。それなら昼間は彼女が店番して、少年をお向かいの学校に行かせればいいのに…。なにか深い事情があるのだろうか。

彼は1日の大半を、店先でスマホを握りしめて過ごしている。僕は4回彼の店に行ったんだけど、毎度シューティングっぽいゲームアプリとFacebookの通知を行ったり来たりしていた。よく飽きないものだ。

でも、あれ?

途上国の貧困エリア、学校に通えない子供たち。ここにインターネットをバラ撒いたら、先生なんていなくても、学校なんて行かなくても、子供たちが勝手に自己学習して成績が上がるんじゃなかったっけ(=^・・^;=)

まぁ彼には確かに一緒にああでもないこうでもないやる仲間もいない。それに朝から晩までテレビ画面で光合成してる備え付けの家具みたいな母親は、もし息子がスマホで勉強をしていても、あら何をやっているの?はぁスゴいわねぇ~、とか言いそうなキャラには見えない。むしろテレビを見ていて気付かないだろう。

それでも、彼は英語を僕くらいにはしゃべる。普通にFacebookしているからアルファベットだって読めるハズ。つまりLTEに繋がったスマホさえあれば、無数に公開されている無料の英語教材を見放題。それこそ分子生物学だって相対性理論だってなんでもありだ。

スラムの子供たちにパソコンを与える実験から20年。

まだまだ1人1台とまではいかないけど、途上国の貧困層にもインターネットやスマホがかなり普及するようになった。でもそれをスキルアップの手段として活用している人を見たことがない。みんなゲームかドラマ、そして通知に脊髄反射でリアクションしているだけ。

もっと貧しいエリアに行くと、双方向のコミュニケーションに興味すらないのか、テレビの前で微動だにしない「ただ生存しているだけ」の人が増える。スマホを持っているのに、だ。

あの教育実験を受けたインドのスラム街の子供たちは、一体何が特別だったのか。

学ぶ目的と学校の意味

たぶん20年前のインドの子供たちは、パソコンを文字通り「まったく」知らなかったのだろう。だから本格的なゲームソフトをダウンロードしたり、成人コンテンなんかにアクセスせず、ごく表層の当たり障りのない機能だけ使うに留まった。みんなで歌ってパソコンで録音して楽しいとか微笑ましい限りである。

でも今の子供たちは、教えられなくてもスマホの使い方をむしろ大人より良く知っている。そうなると。人間は低きに流れる生き物なのか。インターネットに繋がっても短絡的な快楽や楽しさに流れ、長期的に知識を得て実生活を向上させるような使い方はあまりされない。

ここで大切なのは、新しい知識を得る目的なんじゃなかろうか。

僕は大人になってからセンター試験を再受験した関係で、受験サプリ(現スタディサプリ)の威力を身をもって体感した。有名塾講師が自分のレベルにあった日本最高峰の授業を動画配信してくれるのだ。しかも格安。高校生のお小遣いでもサブスクできちゃう。

そのうえでリアルな学校とは、学ぶ目的意識をまったく持ち合わせていなくとも、軍隊式に勉強を強制してくれるサービスといえる。従って自分で学習欲を保てる人にとって、もう学力を高めるために必ずしも学校に行く必要はない。

それに加え。

例えばシンガポールみたいなメリトクラシー社会では、良い大学を卒業できれば、良い初任給をとって有利に社会人をスタートできる可能性が明らかに高まる。でもその一方、評価基準が曖昧で明文化されないハイパー・メリトクラシー社会、日本では、学歴とともにコネやコミュ力や人間力を強く問われ、大学院に進学しようものなら自殺率が数百倍になるリスクさえ負う。むしろスマホでゲームしてハタチそこそこに出来ちゃった婚したヤツの方が幸せそうに見えたり。

そのまま同じではないけど、フィリピンも勉強が成功にそのまま結びつかない社会と言われている。返済不要の奨学金をとって海外留学できるほど優秀でもない限り、中途半端に頑張ってそこそこ勉強ができても、カネがなければフィリピン国内から出られない。

そして国内には良い仕事がない。

ずば抜けた天才と金持ちしか成功出来ないなら、困難を努力して乗り越える意味を見失ってしまうのも無理はない。それにこんな状況じゃ学校だって誰だって、明確な「学ぶ価値」なんて提示出来ないじゃないか。

実際にフィリピンの小学校の中退率は約3割、卒業しても中学校に進学するのはさらにその半分程度とされている(2013年)。

湿気た米屋の少年にしたって、もしかしたら学校に行きたかったかもしれない。でも母ちゃんが「次の教材費は払えない」「あたしゃもうテレビを見て過ごしたい」とか言い出したら、まぁ勉強しても意味ないし店を手伝おう、とか思ってしまうかもしれない。そして逆に少年が不登校になっても「まぁ卒業したって米屋しか仕事がないし」と母ちゃんはテレビから目を離さず息子の教育を諦めてしまうかもしれない。

インターネットと好奇心さえあれば、かなり深いレベルの知識を体系的に得られることは明らかだ。でも放って置いても子供はそういう教材を利用しない。だから学校にブチ込んで勉強「させる」。

でも、勉強させても成功に結びつかないなら。毎日のんびりやっているこの近所の子供たちにとって、学校の意味とはなんだろう。