30代半ばの自由の重み「何をしたいのかわからない」問題

いや~、そろそろなんか書かにゃいけないよな~とか思いつつ、本当に毎日てんてこ舞いに忙しく、なんかよくわからないままにドイツのベルリンに来ました。

オランダに移住するのにベルリンに来ちゃったんですよ。

なんかさ、旅程を立ててる時って、自分がその日付に、その手段で、その街まで行くんだっていう実感がわかないんだよね。だから、東京から訳もなくシンガポールを経由して欧州まで飛行機を買う時に、成田発、台北経由、シンガポールが思ったより安くなくて、次の瞬間、大阪発シンガポールの直行便があることを見つけ、思考がショートして詳細を考える前に買っちゃった。

この時期に飛行機を安く買うには、中華文化圏の春節の大移動を利用する。ようは日本人のお盆休みみたいなもんで、旧正月を祝う国の人たちは連休になった瞬間に海外旅行に繰り出し、休みが終わる前日までには帰国する。この逆の流れで飛行機に乗れば、いろんな場所に安く飛べるわけ。

つまり台湾もシンガポールも中華文化圏だから、春節期間は往復ともチケットが値上がりする。一方、文明開化で中華文化圏を離脱した日本人にとって、春節は普通の平日。大阪ーシンガポールの直行便が、台湾経由より圧倒的に安い理由はここにある。

すなわち日本に旅行で押し寄せるシンガポール人の逆のタイミングでシンガポール入りして、欧州旅行から大挙して帰国するシンガポール人の逆に欧州に行けば、最安値を掴めるのだ。

それは正しい。

正しいんだけど、僕は東京にいるわけで、大阪発の直行便に乗るためには大阪まで別に移動が必要になるわけですよ。そんな当たり前の意識、自分が大荷物もって東海道新幹線のバラ売り回数券を握りしめ、車窓を流れる富士山を背景に崎陽軒のシュウマイ弁当を食べているような、そういう想像力が、春節だ文明開化だなどと無駄なこと考えてるうちに完全に失われる。

この思考がショートした状態ってのは、もう自分の名前すらおぼつかないまでにIQが低下する。

今回はシンガポールからベルリンまでの飛行機で姓名を逆にして搭乗券を買っちゃって、しかも搭乗手続きまでミスに気付かず、チャンギ空港のチェックインカウンターでシンガポール女子さんに怒られましたわ。

「普通ならチケット買い直しなんだから!今回はこのアタシが特別に直してあげるわ!アンタはホントにラッキーなんだからねっ!」

シンガポール女子に怒られると、僕の脳はなぜか涼宮ハルヒの声で日本語に変換する。これは別件のバグである。

酒がないと書けない

ドイツとオランダは食文化が貧相で、地元民や在住日本人に聞いてもケバブとかをオススメされる。でもそれドイツ料理じゃないよなぁ(=^・・^;=)

というわけで今日も僕は、インコの餌みたいな押し麦と、コオロギの餌みたいなカットフルーツをモソモソ食べながら、炭水化物を油で揚げて味の素水溶液につけたようなシンガポール料理を恋しく思うのです。

いや、健康を考えるなら鳥や昆虫みたいな食生活が良いに決まってる。

でもその国の食文化が一定以上のレベルに昇華するってことは、結局は脳の満足中枢に暴力的な刺激を最大最速で送る、ジャンクで不健康な「人間の餌」に行き着くのである。それはアメリカならピザだし、日本で言えばラーメンだし、シンガポールで言えばラクサなわけ。

我は人間である。人間の餌が食べたい!

ふう…。

なんていうか。

自分が何をしているのか意味がわからなくなってきた。オランダに移住するのに意味もなくベルリンにいるし、オランダに移住する理由だって結局は「新奇性探求心が暴走したから」以上でも以下でもない。

しっかりと未来を見据えて、ちゃんと前に進みたかった。

この気持ちに嘘偽りはない。

このブログを始めた3年前から、日常生活を困らせる「苦手」を1つ1つ取り除きはじめ、向精神薬依存から抜け出し、会社組織から自由になり、アルコール依存症を克服し、今ではもう酒を飲んで目をそむけなくちゃならない劣等感もない。

今こそ苦手から逃げる「消極的努力」から、得意をマネタイズして理想の人生を追求する「積極的挑戦」に移行する時なんだ。もはや酔っ払ってる時間がもったいないとさえ思う。この「飲んだら損」という感覚は強烈で、これを思い出せばアルコールの誘惑など一撃で消し飛ばすことができる。

それは、そうなんだけど。

僕の想像力や、ゼロから何かを生み出したい腹の底から湧き上がる衝動は、結局は劣等感と酔に身を任せた根拠のない希望という、意識の奥に沈殿したヘドロみたいなもんだったのかもしれない。

しっかりと未来を見据えて、ちゃんと前には進んでいる。なかなかスゴいぞ。シンガポールの会社員時代から収入は2倍になり、大部分はそのカネで解決したとえは言え、海外再移住に必要な書類を揃える算段を立て、遠隔でオランダの新居の賃貸契約を結び、しかもそれを土日もなく8時ー23時で仕事漬けな中で全部こなしたのだ。

今までなら考えられない、ししもんらしからぬ能率である。もはや世界征服してクリスマスとハロウィンを非合法化するのも現実味が出てきた。

ところが35歳にしてようやく手に入れた、右から流れてきたタスクを的確迅速に処理して左に送るような「真人間」に求められる能力と、渇望とでもいうべき湧き上がる創造意欲は、必ずしも両立しないっぽい。

特に酒を完全に絶ってからというもの、文章をひねり出すのが酷くしんどい。

書けなくなってしまった。

何がしたいのかわからない問題

結局僕は、自分が何をしたいのか、見失ってしまったのかもしれない。

これまでは酒さえ飲めば無条件に一撃で幸福に浸ることができた。自分が何をどうすれば幸福になれるのかなんて悩まずとも、コンビニに行って200円出せば万能ポーションを買えたんだ。

こんな話をしたら、同じく海外ベースで生きている日本の友人が面白いことを言った。

「確かに最近、自分がほしいものは手に入れたし、自分のためにやりたいことも、ほとんどやり尽くしたかもしれない」

日本の大企業に勤める僕と同い年の彼は、一年中アジア一円の国々を仕事で飛び回っている。元々は国際協力とか貧困問題に関わりたかったらしいけど、海外と日本をつなぐ今の仕事にやりがいを見出し、その待遇にも満足しているようだ。

「自分はそのうち結婚して家族のために生きようと思う」

そうなるよね。

この高波は、20代半ばの時にも僕の周辺に押し寄せた。サラリーマン生活。混沌の現代でも日本の大企業で正社員なら、よっぽどのことがない限り路頭に迷うことはない。逆に言えば変化に乏しく、オリジナルな幸福をアグレッシブに追求するよりも、右から左へ正確にタスクを流す会社組織の歯車として、耳と目と口を噤むことを求められる。

今後おろらく一生涯。

そうなった時、愛する誰かを見つけ、家族のために生きるという選択肢が目の前にぶら下がる。自分を主体にして生きる余地がほとんど無いなら、人生の主語を「わたし」から「私たち」に発展させるわけだ。この可能性については鬱病だった当時かなり真剣に考えた。

一方いま30代半ばで周囲に押し寄せている第2波は、逆に自由の重さに1人では耐えられないことが「Weの人生」にシフトする動機になっているように感じる。

ただ、僕の場合、これについては既に結論を出した。僕という人間は非常に自己中心的であり、家族を持ったら家族を利用して自分の幸福を追求してしまうのだ。誰かのために自分を犠牲にして生きること、「私たち」の幸福を目指し、自分のワガママな耳と目と口を噤むこと。

どうしても出来ない。

その代償として、自由の重みに今後も独りで耐えていくしかないのだろう。