マインドフルネス瞑想でまぶたの奥に静寂の秘密基地を獲得した

東京でサラリーマンをしていた時、頭がグチャグチャになると、よくこっそりトイレの個室にこもり、耳栓代わりのイヤホンを装着して目を閉じていた。怪しまれて職場の人間関係がさらに悪化するのを恐れ、ものの3分くらいだけど。それでも静かな場所で目を閉じると、次の1時間は頭のグチャグチャに飲み込まれずに、パソコンに向かえるようになったものだ。

当時は瞑想なんて怪しい宗教儀式くらいに思っていた。今から10年以上前、うつ病と診断されるよりも前の話である。

都心に通勤していた僕の父が、オウム真理教の地下鉄サリンテロを電車数本の差で免れたという小学生時代の記憶が強く、宗教的な情報を過度に忌み嫌っていた。僕自身が理系専攻だからかもだけど、原因と結果を明確に説明できないことは、ウソと決めつけるところがあった。

今でもあるかも(=^・・^;=)

ところが程なくしてうつ病と診断され、原因の特定はおろか、万人に効く治療さえ、21世紀の現代医学には不可能である事実に僕は愕然とした。ドラえもんの22世紀という設定があまりにも未来すぎるので、想像しやすい未来像として「21エモン」を描いた藤子不二雄先生の設定は浅はかだったんじゃないか。21世紀じゃ、まだ心の風邪も治せないのである。

因果関係を明確にしたかった僕は、うつ病の原因を日本社会と決めつけて、日本企業を辞めて海外に飛び出した。

認知行動療法と、マインドフルネス瞑想

ところがシンガポールに移住して、アメリカ企業に転職した後も、僕は頭がグチャグチャになると非常階段の踊り場に逃げ込むようになった。なおトイレの個室じゃないのは、シンガポールの職場のトイレが湿っぽくて汚く、ホッとできなかったからである。怪しまれない程度に10分くらいだけど、誰もいない非常階段で目を閉じ、静かな時間を持てば、次の1時間、またパソコンに向かえるようになったものだ。

あれ(=^・・^;=)

なんも改善してないじゃんか。最初にうつ病と診断されてから5年あまり。住む国、働く会社、話す言語まで変えたのに、これじゃ日本から7000km離れた場所で、また同じ困りごとを繰り返しているだけだ…。

因果関係を明確にしたい僕のセオリーに従うなら、うつ病になった原因は日本社会でも、日本企業でもなくなってしまう。当然、シンガポール社会でも、アメリカ企業でもありえない。

環境を全取り換えした今、当時からずっと一貫しているのは僕自身だけ。原因は僕自身の中にある。

すなわち今後、どこで何をしようが、僕が僕である限り、この困りごとから開放される日は来ない。

理詰めでこの事実にたどり着いたときの、僕の衝撃は猛烈だった。即座に発達障害ブログを立ち上げて、それから2年間ほぼ毎日500記事も書き殴るくらいに。自分のヤバさを自覚して、なんとか原因を特定して解決しようともがいた。

そんな時、ずっと心に引っかかっていたのが認知行動療法という言葉だった。

最初にうつ病の診断を下した日本の精神科医が、僕に勧めたメンタルヘルスの治療法である。自分がうつ病だと認めたくなくて、その病院には二度と行かず、病状を悪化させていったのだけど。

認知行動療法と、マインドフルネス瞑想は、なんだか似ている。両者をメンタルヘルスの不調改善に利用する場合、考え方(認知のパターン)を生活社会に適合するように修正するという目的が同じで、そこに至る手順が異なる。アレコレ調べまくり、本を読みまくった結果、いまの僕が把握している両者の違いはこんな感じ。

例えばアルコール依存症を治そうとする時。

認知行動療法は、朝から酒を飲むのを止めてみる。1時間でも30分でも、酒が物理的に存在しない場所に身を置くのだ。図書館とかね。それを達成できたら「酒がなくても1時間大丈夫だった!」と強く意識する。そして次は2時間映画館とか酒が無い場所で我慢して「酒がなくても2時間大丈夫だった!」と強く意識する。これを繰り返して、「自分はアルコールに頼らなくても大丈夫だ!」という意識を形成していく感じ。

それに対してマインドフルネス瞑想のアプローチは、こうだ。

むしろあえて目の前に酒を置いて、目を閉じる。今にも手を伸ばしたくなる自分を、まぶたを閉じた暗闇のなかで観察する。「自分という人間はこんなにも強くこの酒が飲みたいんだなぁ」と、第三者の視点というか、自分の心の動きを客観的に見る感じ。「すごいな、意識してないのに自分という人間は酒に手を伸ばそうとしている」「うわ、自分という人間が日本酒の匂いをかぐと、脳に欲望の電気刺激が走るのを感じるじゃないか」「自分という人間は本当に依存症なんだな」。

こういう「自分という人間の」心の観察を続けていくと、「俺は酒が飲みたい」という漠然とした欲望ではなく、「脳の特定の機能が 自分に酒を飲ませたがっている 」という具合に、自分の意志の発生源を客観視できるようになる。ここまでくれば「自分の中にある この酒を飲ませたがる脳 を改善しよう」と目標が明確になるわけだ。

結果的に僕の場合はマインドフルネス瞑想の方が相性がよく、もっと具体的には理詰めの性格に合っており、もう15ヶ月間酒を飲んでいない。

さらに断酒トレーニングのある意味嬉しい副作用として、瞑想も実用的なレベルで習得できた。

まぶたの奥にある静寂の秘密基地

2020年から僕はオランダに再移住し、個人事業主として生計を立てている。

いわば自分自身が勤務先で、自分の上司は自分だ。だからサラリーマン時代とは状況が違うものの、腕一本で食べていくというのは別の意味で大変で、ときに不安に押し潰されそうになったり、またお客さんとの考え方の相違で悩むこともある。

そんなわけで今でも頭のグチャグチャになって、トイレの個室や非常階段にこもりたくなるわけだけど、まぁ自宅がオフィスなわけで、ひと目や時間を気にする必要はもうない。

っていうか瞑想を会得した結果、静寂の秘密基地は、むしろ僕のまぶたの裏側にある。

断酒トレーニングに利用したように、目を閉じて自分を観察すると、次から次へと無駄な考えや、妄想や、激しい感情が湧いてくる。顔がかゆいな、とかね。断酒のときは、こういう雑念を「気づき」として利用したわけだけど、心をスッキリとリセットさせる瞑想の場合、「これは雑念である」と分類して(瞑想用語ではラベル貼りと言われる)頭から排除し、それ以上意識しないように努力する。この雑念を意識から追い出す作業こそが、瞑想練習の根本でもある。

やがて雑念を追い出す専用の「神経回路」が脳の中に形成されると、かなり心がグチャグチャになっても、ただ耳栓をして目を閉じるだけで「静寂の秘密基地」に入れるようになる。

トイレの個室→非常階段→まぶたの奥

僕の秘密基地の変遷は、ついに最終形態を迎えた感がある。何しろ自分の中に秘密基地を獲得したわけで、これは最強だ。瞑想に入るために耳栓(ノイズキャンセル機能付きのイヤホン Airpods Pro・ヘッドフォン WH-1000XM4)はまだ必要で、今後はこの聴覚過敏を改善することを瞑想練習の課題にしているけど、それでも耳栓して目を閉じれば、いつでも、どこでも悩みから開放されるというのは、秘密基地として超優秀である。

アルコールは不幸の一時停止という言葉がある。酔っているときは不幸を忘れられるけど、醒めればむしろ悪化した現実が襲ってくるわけだ。

瞑想の場合も、行為そのものが現状の課題を解決してくれるわけじゃない。でも瞑想で「何も考えない、何も感じない」時間を持つとスッキリするし、絡まった糸がほどけるように、問題の核心というか、「いろいろ問題はあるけど今、取り組むべきはここだ」と、関心事から最重要の1つだけを選別する能力が高まる気がする。

そして人間には逃げ場が必要。

逃げ場というと後ろ向きだけど、いわば無条件に安心できる場所。それが家族だという人は多い。困った時も家に帰れば安心できる。子供の寝顔を見ると明日もまた戦う勇気が湧いてくる、とかね。

でもやっぱり僕が癒やされるのは孤独の静寂だ。この世にはそういう人もいるんだ。そういう内向型人間にとって、マインドフルネス瞑想を会得した人だけが入室を許可される「まぶたの奥の秘密基地」は最強である。