アルコール依存症を克服した今も現実から目を背けて可能性に逃げ帰りたくなる話

雑念や過去の記憶が次から次へと湧いてきて、脳のリソースを無駄に食われる。

そんな頭が多動で、フラッシュバックに潰されそうな人ほど、アルコールやギャンブルなんかに病的なまでに依存する「効果」が大きいと実感している。つまり何かに依存することで得られるリターンが普通より大きいから、依存症になりやすいし、依存症から抜け出し難い。これが、発達障害的な特性が強い人が、依存症に陥りやすい原因と考えている。

発達障害がお酒を飲むとパフォーマンス上がる気がするのは何故か

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15年以上毎日(終盤には朝から)酒に溺れていた僕が、一念発起して一切のアルコールを完全に断ち、15か月経った。依存症の「効果」を完全に得られなくなったわけだ。別れてみて初めて大切さに気付くというヤツで、大きな害悪はあれど、アルコールは僕の精神状態に確固たる機能を果たしていたのだ。

この依存症の「効果」には2種類あると僕は感じる。

まず1つ目は、不幸を一時停止できる機能。いわばマイナス状態の精神をゼロまで引き上げてくれる。もちろん期間限定。しかも酔いが醒めてきたり、本格的にアルコール依存症になって、もはやアルコールに汚染された状態が普通だと身体が認識するまでに至ると、相当な量を飲まないと、不幸を一時停止できなくなるのだけど。

『星の王子さま』には、飲兵衛が住んでいる飲兵衛の星というのが登場する。この星に1人で住んでいる飲兵衛が、ちょうど依存症が悪化して多少のアルコールでは自分の不幸を一時停止できなくなった状態に見える。

星の王子さまが「なんでお酒を飲むの?」と尋ねると、この飲兵衛は「酒を飲んでる恥ずかしい自分を忘れるためさ」と答えるのだ。まさに、不幸を一時停止しようとして、微妙に失敗している感じ。この状態からもっと酒を入れれば、この彼も昔みたいに穏やかな精神状態に入れるハズだ。

依存症が持つもう1つの「効果」が、苦労が伴う努力せず、自分が秘めた可能性の中で生きられる機能だ。

これはいわば、マイナス状態の精神を、プラスの領域にまで強力に引き上げてくれる。この2つ目のメリットこそ、アイデアや妄想が次から次へと湧いてくる、頭が多動な人にとって効果がデカい。普通の人よりずっと高く、ハッピーな精神領域に入れるのだ。

こういう感じ。

誰しもささやかな自尊心を持っているハズだ。年収、容姿、社会的地位。あるいは、最愛の家族、理解しあえる昔馴染み、最高の結果を出せる仕事仲間とか、自分が所属する社会を自尊心の中核に据えている人もいるかもしれない。

いずれにしても、こうした自尊心を維持するためには、苦労が伴う努力が必要になる。

最愛の家族でもトラブルは起こるし、社会的地位を保つには仕事で結果を出し続けなければならない。生得的な容姿でさえ年齢には抗えず、魅力を維持するために必要な時間とカネは上がっていく。昔馴染みや慣れ親しんだ地域社会にしたって、みんなの和を維持するために人間関係の微妙なバランスを緻密に舵取りすることもあるだろう。

でも実は、こういう苦労や努力を一切せずに、自尊心の中核を手に入れる方法がある。

「自分はやればデキる」と信じ込み、具体的な努力を先延ばしにすることだ。本当の自分を実現する努力を先延ばしにしている限り、夢を美しい夢のままに温存できる。

僕は自尊心が足りなくなると、大型書店にいって視界一面にならぶ背表紙が放つオーラに癒される。この背表紙のオーラは、自分には無限の可能性があるような気分にさせてくれる。この無数に並ぶ書棚を1段でも読破すれば、その業界の最新知識が手に入る。いや、3冊くらいでも具体的な資格が取れるだろう。そうすれば今のクソな仕事を辞めて、もっと自分に相応しい待遇を手に入れられる。そう、この中の僅か数冊を読破するだけで…。

ところが。

そんなテンションでホクホクと購入した専門書を第二章まで読み進むころには、自分の脳みそのデキには少々荷が重いことに気づく。第三章に至るころには物凄い重さで押しつぶされる。第四章に到達する日は終ぞ来ない。

こうやって部屋の、微妙に視界に入る場所に、放置されている「未来への切り札」を持っている人は多いのではないか。これはある意味、電子書籍には真似できない紙の本の魅力である(=^・・^;=)

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紙の本のチカラ。大型書店でメンタルを回復する。

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頭が多動な人の、次から次へと湧いてくるアイデアや考え方というのは、この背表紙のオーラと似ている。もちろん素面な状態では、湧いてくるアイデアのほぼ全てが荒唐無稽で、実現不可能な考えだと正しく認知できる。

ところがここでアルコールなど、なにかに依存すると、あら不思議。

まるで専門書に囲まれている時のように、無限に沸き起こるアイデア、満ち溢れる可能性が、自分の中に秘められているような気分になる。これは本当に気持ち良い。専門書をずっと手に取らなければ、内容に挫折することなく「理解した自分になれる可能性」を維持できる。

ギャンブル依存症の人が「トータルでは勝ってる」とか、恋愛依存症の人が「運命の人に出会った」とか言うのも、結局は具体的な課題を解決することから逃げるために、目前の現実から目を背け、自分が秘めている可能性の中で酔っ払っているのだ。何しろ努力をしなければしないほど、夢をより完全な状態で夢のままにできるのだから。

快楽主義で幸福になれるか

サンデル教授の世界一受けたい授業とか、トロッコ列車で何人挽き殺すべきか、みたいな哲学議論が流行った時期がある。

アメリカの大学は一般教養の授業を客寄せパンダとしてネット配信することが多い。学部の1年生が取らされる専攻と無関係の必修科目を、さらに無関係な一般市民が見るわけで、一見すると時間の無駄なようだけど、中には面白い授業もあって時々いろんな大学のコンテンツが話題になる。

イェール大学のシェリー・ケーガン教授による、DEATH、邦題は「死とは何か」、もその1つで、日本語で書籍化までされている。

死ぬとはどういう現象なのか、死を悪い(悲しい)ことと考えるのは何故か、自殺を肯定する状況はあり得るか?

といった常識的にわかってるようで、いざちゃんと考えてみると具体的に回答できない問いに対して、初歩的な哲学議論を繰り広げ、教授が考える「哲学的正解」に読者を導いていく。面白い。洋書の邦訳にありがちな、クソ冗長な文面だけど、興味深かった。

家族を作るつもりがない僕は、将来的にオランダ国籍を取って最期は医療安楽死を選択するつもりなんだけど、こういう方向性が正しいのか、正しくないならそれは何故か、を考える上で、思考の土台としてこの本を手に取った。まぁ、この決断に至る話は、また別の機会に書くとして、今回この本を引用するのは、次のような文脈である。

死ぬことは何故悪い(悲しい)のか。それは人生の素晴らしさを失うからだ。では、人生の素晴らしさとは何か。

ここで本書の議論は「快楽主義」に踏み込んでいく。快楽主義とは、快楽を追求して苦痛を避けることが良い人生であり、快楽こそがこの世を生きる究極の目的であるとする考えだ。紀元前の古代ギリシア哲学からこうした考え方は検証されるらしい。エピクロスはアルコール依存症だったんじゃないかしら(=^・・^;=)

もし人生の素晴らしさを快楽の追求だとするならば、21世紀には次の疑問が湧いてくる。

ある薬物や電気刺激なんかで、この世で最高の幸福を手に入れた人と同じ脳の電気信号を、誰にでも完全に再現できる技術があるなら、全人類が幸福になれるのか。荒唐無稽な話に聞こえるけど、最悪の依存性薬物といわれるヘロインは、もはや努力して達成できる以上の快楽を、一撃で再現できるらしい。

アルコール依存性で享受できる快楽が、今現在は内に秘めた可能性を前にした高揚感だとするなら、近未来には実際に理想の人生を成就した後の快楽さえも、完全な形で体験できるようになるかもしれない。

快楽の追求がこの次元にまで高められた場合、もはや努力してショボい達成感を実現する意味はあるのか?むしろ依存性的な人生を追及する方が、その先により大きな幸福が待っているのでは?

何も考えない時間こそが幸福

そう、アルコール依存症から抜け出して15か月経っても、今でもふと酒を飲みたくなる。時にはどうしようもなく強い衝動が襲ってくる。

悪いことに僕が今住んでいるオランダの家は、キオスクという日本でいえばタバコ屋的なミニ商店の真上に位置する。つまり1階まで降りるだけで、元パレスチナ難民のおっちゃんがいつでも手軽に、ビールを安く売ってくれちゃうのである。

ううぅぅ…。

依存性から脱することで、大きな2つの効果を手放した。その結果、認知力が目に見えて回復し、実際に仕事の能率が上がって収入も増えた。でも、そこから得られる快楽は、手放した2つの効果と比べて、時に見劣りすることがある。

特に、目の前に立ちはだかる課題を途方もなく困難に感じるときは、「もし頑張れば何でもデキる自分」に逃げ帰りたくなる。この程度の能力さえない自分から目をそむけたくなる。

この状態を乗り越えるためには、さらに努力して、もっと達成感を得るだけじゃ限界があると切に感じる。もっとこう、依存性に代わる快楽、生きる究極の目的を、別の場所にも用意したい。いわば心が折れそうな時の退避場所である。

そうやって闇雲に本を読み漁るうち、瞑想指南書のなかに「何も考えてない時間こそが至上の幸福」という言葉を見つけた。

マインドフルネス瞑想でまぶたの奥に静寂の秘密基地を獲得した

これだ(=^・・^=)♬

僕が瞑想に取り組み始めのは、うつ病になった10年以上前。その間に、世の中での呼称は認知行動療法からマインドフルネスに変わったけど、目指すことは同じ。雑念を脳から排除して、歪んだ認知パターンを矯正することである。

そのために「何も考えない時間」を持てるよう練習して、ようやく最近になって「瞑想できてる感」を得られるまでに至った。きっとこの先に、快楽主義や努力による達成感をも超越する境地が待っているんだろう。

僕が間違った道に乗っていないことを切に願う(=^・・^;=)