学生時代、アルバイト先で同僚のおばちゃんが親切にしてくれた。今から約20年も昔の話である。
彼女には小学生の一人息子がいたんだけど、3年生でクラス替えになってからずっと不登校。イジメとまではいかないけど新しいクラスで気の合う友達を見つけられず、それとは別に勉強でも躓き、やることなすこと上手くいかない学校に行く勇気を挫かれてしまったという話だった。
今思い返すと、彼女が親切にしてくれたのは、僕に息子さんの姿を重ねていたからかもしれない。
なにしろ自己分析なんて怪しい宗教くらいに思っていたから、僕が経験した人生最初のアルバイトはなんと接客業。品出しに夢中でお客さんに話しかけられても気づかなかったり、レジに棒金(小銭の束)を補充する際にぶちまけたり。当然職場のお荷物になり、やることなすこと散々だった。
そんな僕を慰めてくれている時、彼女がこんなことを言った。
「学校も仕事も発表する場所で、学ぶ場所はどこにもない」
「大切なことは誰も教えてくれないのに、いつの間にか出来るのが当たり前になっていて、いきなり実践することを求められる」
「それで失敗すると、もうどうすることもできない」
こういうことだ。
息子さんが不登校になる直前、2年生の夏にプールの授業が始まった。顔を水につけるとかバタ脚とかは1年生で習っているので、いきなりプールの対岸までビート板を使って泳げという指示が飛んだ。
水に入るのも1年ぶりである。
ところが他のクラスメイトたちは、たどたどしくも水をかき、どんどん反対側へ渡っていく。もともと運動神経が良い子はもちろん、1年生のころにバタ脚特訓を一緒に受けていた子たちも、実はスイミングスクールに通っていつの間にか上達していたのだ。
息子さんはというと、怖かったのだろう。ビート板にすがって飛び込む勇気が出ず、取り残されてしまった。
「店長はもっと周りの状況をよく見ろっていうけど、具体的に状況をよく見る方法は指導できないのよね。もともと良く出来る人は意識してやることじゃないんだから」
閉店後にレジの残金が合わず四苦八苦している僕に、おばちゃんはこんなことを言った。
息子さんが不登校になった時、いろんな人がいろんなことを忠告してきたらしい。曰く、殴ってでも学校に行かせるべきだ。ここで甘やかすと後戻りできない。などなど。
でも、おばちゃんとしては、学校に行かせたところで何も解決しないと感じたらしい。何しろ学校とは既に出来ることを証明しに行く場所で、出来るようになる方法を教えてはくれないのだから。
学校で人間関係を学べるか
僕はもう37歳なので、昔馴染みの多くには家族がいる。
最近そんな1人とオンラインで話すうち、小学生のいじめ自殺の話題になった。
「俺はねぇ、学校の役割は終わったと思っているよ。娘には楽しいうちは行けばいいけど、嫌になったら家で勉強すればいいと伝えてある」
「オンライン学習塾ってのに登録して娘とやってみたんだけど、学力を上げるだけならアプリで充分だ。小学校で授業参観した限り、下手クソな先生よりよっぽどわかりやすい」
「集団生活とか協調性とか、学校で学ぶのは勉強だけじゃない。でもそれには暴力を我慢したり、まして自殺するほどの価値はないと思う」
えっ(=^・・^;=)?
それを聞いて僕は疑問に思った。集団生活や協調性を、学校で習ったことあったっけ?
集団行動を乱すなとか、他人の気持ちを考えましょうとか言われたことはあっても、これはバイトのおばちゃんが言うところの「すでに出来ることの証明」を求められているに過ぎない。
具体的にどうすれば他人の気持ちを考えることができるのか、集団の和の定義とは何か。こうした学校社会や会社員生活で暗黙に求められる知識について、系統立って学校で習った記憶はない。
少なくとも、義務教育から大学まで国公立校で公教育をコンプリートしたのに、僕ときたら集団生活や協調性は一切身についていない。学校でも日本の職場でも、異世界転生したシンガポールでも、あまねく集団と衝突してオランダに逃げてきたわけで、こりゃもう間違いない。
もうオランダでは同じ失敗をしたくないので、出来るだけ人間と関わらないようにしている始末。
もし学校が集団生活や協調性を養う機能を担っているのだとしたら、少なくとも僕に対しては全く役割を果たしていない。
得意分野があれば孤立しても生きられる
詰まるところ、混沌とした戦場に放り込んで「うまく戦え」と指示するだけでは、何かを教えていることにはならない。もちろん善戦する人はいるのだろうけど、それは戦闘力をもともと備えていた人だ。
学校に行かせることが解決にならないと言ったアルバイトのおばちゃんは、これを言いたかったのだろう。
でも幸運なことに、世の中はどんどん良い方向に進んでいる。学校が機能不全なままで、協調性を暗黙に求める職場が相変わらず存在しても、そんな集団の一員にならなくてはいけない必要性がどんどん小さくなっている。
教育にしろ、仕事にしろ、究極の目的は「自立」だ。
具体的にはお金を稼ぐ能力と、稼いだお金を使って衣食住を整えるチカラ。このチカラを養うのが学校で、実践するのが仕事というわけ。
一昔前、僕の親世代なら、その両方をひとりでは達成できなかった。全ての業務が手作業なのだから職場の分業が不可欠で、個々人はその歯車の1つになるしかない。夜遅くまで営業している店がほとんどないから、昼間家にいて家事をこなしてくれる人を確保する必要だってあった。
でも今では、ひとりでなんでもできる。コロナ以降はむしろ、ひとりで何でもすることを求められている感すらある。
ひとりでお金を稼ぐチカラさえあれば、アプリ、家電、サービスに課金して衣食住は自動化できる。
ひとりでお金を稼ぐチカラさえあれば、自立を達成できる。
従って集団生活や協調性で躓いたら、「みんなで一緒」を求められるアレやコレやをサクッとあっさり切り捨てて、自分ひとりでお金を稼ぐチカラの獲得に時間とメンタルを全振りすればいいのである。
まじ、この事実を20年前の僕自身に伝えたい。
お前は他人の気持ちを汲み取れないし、集団の目標に合わせて行動する能力もない。その能力は今後20年七転八倒しても身に付かない。だからこれ以上、出来ないことに固執せず、自分ひとりで金を稼げるスキルを獲得する方向で努力せよ。
そうすればうつ病にもならなかったし、ひょっとしたら今でも日本に住んでいたかもしれない。
学校制度に子供が殺されるたび、そんなニュースに対して殴ってでも学校に行かせるべきだとか、ここで甘やかすと後戻りできないとかいう意見を目にするたび、時代は変わったのだとみんなに気付いて欲しいと思う。
現代では孤立しても、自立して生きていけるのだから。