デンマークのミシュラン★★レストランで食事してきたんですが

今月のハイライトと言えば、デンマークのミシュラン2つ星レストランで豪華なランチを頂いたことだ。オランダで独立するまでは最底辺サラリーマンとして辛酸を舐めてきた僕も、いつの間にかエラくなったもんである(=^・・^=)♬

もちろん僕一人なら、海外旅行に行っても普通のスーパーでお惣菜などパック詰めし、地ビールと一緒にそこら辺の公園でピクニックと洒落込むのだが。

今回はシンガポールから石油女王御一行様の来客があったので、彼女らの趣味に付き合ったのである。

彼女らこそ、この10年ですごく出世した。僕がシンガポールのホステルで時給400円のアルバイトをしていた時の仲間であり、当時はポリテク(日本の高専に相当?)を卒業したての新米社会人ってなイメージだったのだが、今では世界中に名の知れた国際企業でチームを率い、ビジネスクラスで世界を飛び回っているらしい。

それでデンマーク出張に合わせて休暇を取り、「近所」オランダに住む僕を召喚したわけである。

本当に美味しい食べ物

僕の基準で本当に美味しい食べ物とは、もし国家権力によって禁止されても、闇○○とか偽○○みたいなのが自然発生的に発明される料理だ。

なにしろ本当にとてつもなく美味しいのだから、生き甲斐というレベルで依存している人が大勢いて、それが食べられないと彼らは生きる意味を失ってしまう。だから国家権力によって禁止されると、あの手この手でホンモノの味を再現したり、あるいは店側が監視の目をかいくぐって裏で営業を継続する。金に糸目を付けぬ愛好者が大勢いるのだから、提供すれば吹っ掛けても客が入り、法を犯すリスク以上に儲けられるのだ。

荒唐無稽な戯言と思うなかれ。

20年前の狂牛病騒動で登場した豚丼を思い出してほしい。あれは「偽牛丼」である。今でこそ豚丼それ自体の美味しさが牛丼とは切り離して評価されているとは言え、当時は完全な代用品に過ぎなかった。さらに、輸入禁止前に入ってきた安い牛スジ肉をなんとか手に入れて、自宅で贔屓の牛丼チェーンの味を再現する「闇牛丼」の制作も某掲示板などで散見された。

僕の基準に照らせば、牛丼こそ本当に美味しい食べ物に該当する。

他にもイスラム圏でのラーメンが良い例だ。

イスラム教徒にとって豚肉の禁忌は絶対である。食べ物の禁忌は宗教に馴染みのない日本人にはピンと来ないのだけど、ムスリムにとって豚肉を食べるのはウンコを食べるくらいおぞましい行為であり、豚肉を食べていることが周囲にバレるとウンコと同じレベルで軽蔑される(制裁を受ける)リスクを負う。

イスラム教が支配的な中東などでは、そもそも豚を食べられる場所や機会が非常に限られているので問題ない。ところが東南アジアやヨーロッパのように、イスラム教徒がマイノリティな地域では、友達がみんな美味しそうに豚骨ラーメンをすすっているのに、自分だけ我慢を強いられることになる。

そこで、こうした地域では鶏がらスープのラーメンとか、そもそも肉を使ってない野菜ラーメンなんかがメニューに存在する。いわば偽ラーメンなのだけど、それがメニューあることでムスリムでも仲間はずれにならずに済む。

あと、僕の周りにいる「不良ムスリム」は、こっそり隠れて豚骨ラーメンを食べている(と思われる)。本人は豚なんて食べたことないと頑なに言い張るわけだが、いかんせん日本のラーメン事情に詳しすぎる。来年は一蘭が進出してくるらしいみたいな情報、僕だって知らないし、どうでもいいわ(笑)

このように、とりあえずそれっぽい代用メニューが開発されたり、ルールを破ってでも食べちゃう過激派が存在する料理こそ、世界が認める美味しい料理である。これはもう世界の裏路地が誇るC級グルメを紹介する「シシラン ガイドブック2022」を出版するしかないな(=^・・^=)♬

ミシュラン レストランの価値

年季の入った木造の建物をガラス張りにリノベーションした店内の真ん中には、アイランド式の厨房がむき出しで配置され、10人くらいのシェフが忙しく働いている。なんと今日出てくる1品ごとに、専従するシェフが1人いるらしい。

シンガポールの石油女王、キャリアウーマン女史が、キャンセル待ちに1ヵ月並んでようやく予約が取れたと言っていた通り、オープンキッチンを囲むテーブルは、僕らが着席して間もなくすべて埋まった。

めっちゃ洒落た店にもかかわらず調べたらドレスコードは「なし」となっていたので、僕はおっかなびっくり普通にTシャツとジーパンで来た。東京の就職説明会に「平服でお越しください」と書いてあったから、ライダー ジャケットを着てバイクで乗り付けたのに、現地にはリクスー軍団しかおらず、受付のお姉ちゃんにガッツリ止められたのが18年経った今でもトラウマである。

でも、ここは自由の国デンマーク。Tシャツとジーパンでまったく問題なかった。地元のデンマーク人と思しき隣席の家族も気軽な格好をしており、おばあちゃんだけ1人めかしていると思ったら、コースの後半で蠟燭が灯ったケーキが運ばれていたので彼女の誕生会だったのだろう。

微笑ましい週末のひとコマである。

僕たちのテーブルを担当してくれたサービトリス(女性フロアスタッフ)はフランス人だった。デンマーク語はオランダ語と似ている(ゲルマン語族)ので、現地語風に適当に挨拶すると「あ~、私はフランス人なんです。わたしの英語、めっちゃフランス訛りでしょう~」と英語で返ってきた。

「3人の中であなただけお国が違うように感じてましたが~、日本からいらしたのですね~」

そりゃぁ……僕だけ英語が下手くそだからね。シンガポール女子たちは毎日Web会議でアメリカ人を英語でボコボコにしている。

そんな流れで、のんびりした食いしん坊という印象の彼女とは、なんと3時間半もかかったランチコースが終わるまで、シンガポール女子2人も交えていろいろな話をした。

興味深かったのは、一流レストランともなると、フロアスタッフにもキャリアが求められるらしい。彼女の場合はパリのホテルで働いたのち、リヨンのレストランで修行して、晴れてミシュランで星も獲得しているデンマークのレストランで働けるようになったのだとか。ミシュラン レストランとは、やる気とか「笑顔が素敵」なだけでは採用されない狭き門。

彼女は給仕のプロなのである。

「シンガポールの飲食業は低賃金で、もっぱら移民の仕事。こういうキャリアパスは無い。シンガポールのレストランのレベルがイマイチなのは彼女みたいな人材がいないからだわ」

シンガポールのキャリアウーマン女史が、ここ一番に的確な分析をしていて、僕は思わず頷いた。医者や銀行家みたいな、わかりやすいエリート職でなくても、スポーツ、芸術、接客みたいな、人間の気持ちに直接訴えかける職業に情熱をもって取り組んでいる人がどれだけいるか。それが社会の豊かさというか、日々の生活に深みを与えるのである。

そんなわけで、ミシュラン★★レストランにうっかり紛れ込んだ3時間半はけっこう楽しかったのだけど、肝心のお料理の味に関しては、自分の分不相応さを痛感せざるを得なかった。

そりゃもちろん美味しいのだけど、なんかこう、胃袋をギュギュっと掴まれる感じの「勢い」が足りない。口にほうばった時に、快楽物質ドーパミン(脳汁)が脳内でブシャーッと溢れ出す感じがしない。

このスポンジケーキにバタークリームとキャビアが乗った食べ物は、小麦粉とキャビアが禁止された世界線で、果たして偽物が創られるだろうか。米粉のケーキと黒く染めたトビッコで同じような味と食感を追求する料理人と、それを大金出して食べる愛好者は現れるだろうか。

この花びらとチーズを散らしたキッシュ的な料理が国際的に禁止されたら、北朝鮮の闇食堂に潜って、社会的制裁を覚悟してでも食べたくなるだろうか。

モヤっとした感じが残る。

ただ、連れのシンガポール女子たちを見ていたら、その答えを何となく理解できた。

彼女らは「自分より先にカメラに食べさせる」と言って笑いながら、皿が運ばれてくる度に写真を撮っている。いや、写真だけなら可愛いもんで、インカメで料理を解説する自撮り動画まで撮っている。うるせーわ、誰が見るんだそんなもん(笑)

「さすがにSNSに上げるのはホテルに帰ってからにするわ。別のアプリで顔のたるみを修正しないと」

こういう一流レストランというのは「料理道」といった感じで、食事中にスマホなど出そうもんならシェフが血相変えて飛んできて、出刃包丁で叩き割られるイメージだったのだけど(=^・・^;=)

「宣伝にもなるし、怒られるわけないじゃん!わたしもインスタで見て、このレストランを知ったし」

なるほど。

バファリンの半分は優しさであるように、高級レストランの価値の半分くらいはステータスなのかもしれない。

純粋に脳汁出まくりな料理でお腹いっぱいになって満足するよりも、月曜日の同僚との会話で「週末はこの店でランチで~」みたいな会話のネタにしたり、あるいはSNSでマウントを取ったり。そういう社会的な意味付けが、このレストランの存在意義に下駄をはかせている気がした。

もし人類の文明が崩壊し、誰とも比べられず、誰からも羨ましいがられない世界線が到来したら、ミシュラン レストランで出される料理とは、牛丼やラーメンのように地下の闇食堂で脈々と食べ継がれる味ではないのである。

大衆からズレるといろいろ楽しめない

就職説明会にバイクで乗り付けちゃうように、ミシュラン レストランにTシャツで行っちゃうように、僕は他人からの評価というのを気にしなすぎるのだろう。

産まれてからナチュラルに独自路線の性格だった気もするし、親に怒られ、教師に怒られ、上司に怒られるうち、「うるせー!!」とばかりに社会的常識にへそを曲げてしまった気もする。しかも社会的常識に中指立てたまま、問題なく楽しく豊かに暮らせるようになっちゃったわけで、最近では「やっぱ自分は間違ってなかった」と確信すらしている。

ただ、社会的常識を重視する「大衆」から価値観がズレるに従い、心から楽しめないサービス、娯楽、コンテンツが増えた。

若い頃は酔っぱらって気楽に騒いでいたシンガポール女子たちとも、彼女らがステータスを尊び、社会的に成功を掴んでいくに従って、10年前のように心から分かり合えたと感じる瞬間が減ってきてしまった。例えば僕らは10年前にも3人でアメリカ西海岸をオープンカーで爆走しているのだが、ホステルやモーテルで他の宿泊客も交えて和気あいあいとしていた当時とは違い、彼女らは「Web会議があるから防音じゃないと」と3つ星ホテルを選んだ。

僕だけが大人になれず、取り残されているのか。

オランダで獲得した友達がみんな僕より若いのも、そのせいか。

どうすれば社会的常識を重視する「大人」になれるのだろう。

デンマークのミシュラン レストランで食べ慣れないご馳走を前にして、こんなことをグルグル考えてしまった。